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鳥影

著者:石川啄木

とりかげ - いしかわ たくぼく

文字数:85,053 底本発行年:1970
著者リスト:
著者石川 啄木
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其一

小川靜子は、兄の信吾が歸省するというふので、二人の妹と下男の松藏を伴れて、好摩かうまの停車場まで迎ひに出た。 もと/\鋤一つ入れたことのない荒蕪地の中に建てられた小さい三等驛だから、乘降の客と言つても日に二十人が關の山、それも大抵は近村の百姓や小商人許りなのだが、今日は姉妹の姿が人の目をいて、夏草の香に埋もれた驛内も常になくなまめいてゐる。

小川家といへば、郡でも相應な資産家として、また、當主の信之が郡會議員になつてゐる所から、主なる有志家の一人として名が通つてゐる。 總領の信吾は、今年大學の英文科を三年に進んだ。 何と思つてか知らぬが、この暑中休暇を東京で暮すと言つて來たのを、故家うちでは、村で唯一人の大學生なる吾子の夏毎の歸省を、何よりの誇見みえで樂みにもしてゐる、世間不知しらずの母が躍起になつて、自分の病氣や靜子の縁談を理由に、手酷く反對した。 それで信吾は、格別の用があつたでもなかつたが、案外おとなしく歸ることになつたのだ。

午前十一時何分かに着く筈の下り列車が、定刻を三十分も過ぎてるのに、未だ着かない。 姉妹を初め、三四人の乘客が皆もうプラットフォームに出てゐて、※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)はるか南の方の森の上に煙の見えるのを、今か今かと待つてゐる。 二人の妹は、裾短かな、海老茶えびちやの袴、下髮おさげに同じ朱鷺色ときいろのリボンを結んで、譯もない事に笑ひ興じて、追ひつ追はれつする。 それを羨ましに見ながら、同年輩の見窄みすぼらしいなりをした、洗洒しの白手拭を冠つた小娘が、大時計の下に腰掛けてゐる、目のショボ/\した婆樣の膝に凭れてゐた。

驛員が二三人、驛夫室の入口にかゝつたり、しやがんだりして、時々此方を見ながら、何か小聲に語り合つては、無遠慮にどつと笑ふ。 靜子はそれを避ける樣に、ズッと端の方の腰掛に腰を掛けた。 銘仙矢絣の單衣に、白茶の繻珍の帶も配色がよく、生際の美しい髮を油氣なしのエス卷に結つて、幅廣の鼠のリボンを生温かい風が煽る。 化粧よそほつてはゐないが、七難隱す色白に、長い睫毛まつげと恰好のよい鼻、よく整つた顏容かほだちで、二十二といふとしよりは、誰が目にも二つか三つ若い。 それでゐて、何處かう落着いた、と言ふよりは寧ろ、沈んだ處のある女だ。

六月下旬の日射ひざしがもう正午ひるに近い。 山國の空は秋の如く澄んで、姫神山ひめかみさんの右の肩に、綿の樣な白雲が一團、彫出ほりだされた樣に浮んでゐる。 燃ゆる樣な、好摩かうまが原の夏草の中を、驀地まつしぐらに走つた二條の鐵軌レールは、車の軋つた痕に激しく日光を反射して、それに疲れた眼が、※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)か彼方に快い蔭をつくつた、白樺の木立の中に、蕩々とろ/\と融けて行きさうだ。

靜子は眼を細くして、恍然うつとりと兄の信吾の事を考へてゐた。 去年の夏は、休暇がまだ二十日も餘つてる時に、信吾は急に言出して東京に發つた。 それは靜子の學校仲間であつた平澤清子が、醫師の加藤と結婚する前日であつた。 清子と信吾が、餘程以前から思ひ合つてゐた事は、靜子だけがよく知つてゐた。

今度歸るまいとしたのも、或は其、己に背いた清子と再び逢ふまいとしたのではなからうかと、靜子は女心に考へてゐた。 それにしても歸つて來るといふのは嬉しい、恁う思返して呉れたのは、細々と訴へてやつた自分の手紙を讀んだ爲だ、兄は自分を援けに歸るのだと許り思つてゐる。 靜子は、今持上つてゐる縁談が、種々の事情から兩親始め祖父までが折角勸めるけれど、自分では奈何どうしてもく氣になれない、此心をよく諒察くみとつて、好く其間に斡旋してくれるのは、信吾の外にないと信じてゐるのだ。

『來た、來た。』 と、背の低い驛夫が叫んだので、フォームは俄かに色めいた。 も一人の髯面の驛夫は、中に人のゐない改札口へ行つて、『來ましたよウ。』 と怒鳴つた。 濃い煙が、眩しい野末の青葉の上に見える。

凄じい地響をさせて突進して來た列車が停ると、信吾は手づから二等室のドアけて身輕に降り立つた。 乘降の客や驛員が、慌しく四邊あたりを驅ける。 汽笛が澄んだ空氣を振はして、汽車は直ぐつた。

荷札チェッキ扱ひにして來た、重さうな旅行鞄を、信吾が手傳つて、頭の禿げた松藏に背負してる間に、靜子は熟々つく/″\其容子を見てゐた。 ネルの單衣に涼しさうな生絹きぎぬの兵子帶、紺キャラコの夏足袋から、細い柾目の下駄まで、去年の信吾とは大分違つてゐる。 中肉の、背は※(「女+亭」、第3水準1-15-85)すらりとして高く、帽子にはわざと徽章も附けてないから、打見には誰にも學生と思へない。 何處か厭味のある、ニヤケた顏ではあるが、母が妹の靜子が聞いてさへ可笑い位自慢してるだけあつて、男には惜しい程肌理きめこまかく、色が白い。

其一

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鳥影 - 情報

鳥影

とりかげ

文字数 85,053文字

著者リスト:
著者石川 啄木

底本 石川啄木作品集 第三巻

青空情報


底本:「石川啄木作品集 第三巻」昭和出版社
   1970(昭和45)年11月20日発行
初出:「東京毎日新聞」
   1908(明治41)年11月1日〜12月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「坂」と「阪」、「昵」と「眤」、「回」と「囘」、「鼓」と「皷」、「廻」と「」の混在は底本通りです。
※初出時の表題は「鳥影(てうえい)」です。
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2007年1月16日作成
2014年8月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:鳥影

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