序章-章なし
一七八九年七月バスティーユ牢獄の破壊にその端緒を開いたフランス大革命は、有史以来人類のなした最も大きな歩みの一つであった。
その叫喊は生まれいずる者の産声であり、その恐怖は新しき太陽に対する眩惑であり、その血潮は新たに生まれいでた赤児の産湯であった。
そしてその赤児を育つるに偉大なる保母がなければならなかった。
一挙にして共和制をくつがえして帝国を建て、民衆の声に代うるに皇帝の命令をもってし、全ヨーロッパ大陸に威令したナポレオンは、実に自ら知らずしてかの赤児の保母であった、偉人の痛ましき運命の矛盾である。
帝国の名のもとに赤児はおもむろに育って行った。
やがて彼が青年に達するとき、その保母にはワーテルローがなければならなくなった。
「自由」とナポレオン、外観上相反するその二つは、実は一体の神に祭らるべき運命にあった。
フランスの民衆はその前に跪拝した。
彼らのうちにおいてその二つは、あるいは矛盾し、あるいは一致しながら、常に汪洋たる潮の流れを支持していた。
そして彼らの周囲には、古き世界の伝統があった。
伝統に対する奉仕者らが、神聖同盟の強力が。
けれども彼らの心の奥には、パリーの裏長屋の片すみには、「自由」とナポレオンの一体の神が常に祭られていた。
一八三〇年七月の革命は、また一八三二年六月の暴動は、底に潜んだ潮の流れの、表面に表われた一つの波濤にすぎなかった。
その動揺せる世潮の中を、一人の男が、惨めなるかつ偉大なる一人の男が、進んでゆく。
身には社会的永罰を被りながら、周囲には社会の下積みたる浮浪階級を持ちながら、彼はすべてを避けず、すべてに忍従しつつ進んでゆく。
彼の名をジャン・ヴァルジャンと言う。
ジャン・ヴァルジャンは片田舎の愚昧なる一青年であった。
彼は一片のパンを盗んだために、ついに十九年間の牢獄生活を送らねばならなかった。
十九年の屈辱と労役とのうちに、彼は知力とまた社会に対する怨恨とを得た。
そして獄を出ると、彼が第一に出会ったものは、すべてを神に捧げつくしたミリエル司教であった。
そこに彼の第一の苦悶が生まれる。
神と悪魔との戦いである。
苦悶のうちに少年ジェルヴェーについての試練がきた。
彼は勇ましくも贖罪の生活にはいり、マドレーヌなる名のもとに姿を隠して、モントルイュ・スュール・メールの小都市において事業と徳行とに成功し、ついに市長の地位を得た。
しかし彼の前名を負って重罪裁判に付せられたシャンマティユーの事件が起こった。
そこに彼の第二の苦悶が生まれる。
良心と誘惑との戦いである。
彼は自ら名乗って出て、再び牢獄の生活が始まった。
しかし彼は巧みに獄を脱して、不幸なる女ファンティーヌへの生前の誓いを守って、彼女の憐れなる娘コゼットを無頼の者の手より取り返し、彼女を伴なってパリーの暗黒のうちに身を隠した。
そしてそこにおいてあらゆる事変は渦を巻いて彼を取り囲んだ。
警官の追跡、女修道院の生活、墓穴への冒険、浮浪少年の群れ、熱情のマリユス、無為のマブーフ老人、ABCの秘密結社、ゴルボー屋敷、無頼なるテナルディエの者ども、少年ガヴローシュ、マリユスとコゼットの恋、一八三二年六月の暴動、市街戦、革命児アンジョーラ、下水道中の逃走、ジャヴェルの自殺、マリユスとコゼットとの結婚、ジャン・ヴァルジャンの告白。
そこに彼の第三の苦悶が生まれる。
この世の有と無との戦いである。
すべてを失った後、彼は死と微光との前に立つ。
マリユスとコゼットとに向かって彼は言う、「……お前たちは祝福された人たちだ。
私はもう自分で自分がよくわからない。
光が見える。
もっと近くにおいで。
私は楽しく死ねる。