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夏の花

著者:原民喜

なつのはな - はら たみき

文字数:12,722 底本発行年:1973
著者リスト:
著者原 民喜
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序章-章なし

わが愛する者よう急ぎはしれ

かぐわしき山々の上にありて※(「けものへん+章」、第3水準1-87-80)のろ

ごとく小鹿のごとくあれ

私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。 ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。 八月十五日は妻にとって初盆にいぼんにあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。 恰度ちょうど、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。 その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐かれんな野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。

炎天にさらされている墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清々すがすがしくなったようで、私はしばらく花と石に視入みいった。 この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納っているのだった。 持って来た線香にマッチをつけ、黙礼を済ますと私はかたわらの井戸で水をんだ。 それから、饒津にぎつ公園の方を廻って家に戻ったのであるが、その日も、その翌日も、私のポケットは線香のにおいがしみこんでいた。 原子爆弾に襲われたのは、その翌々日のことであった。

私はかわやにいたため一命を拾った。 八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。 前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかったので、夜明前には服を全部脱いで、久し振りに寝間着に着替えてねむった。 それで、起き出した時もパンツ一つであった。 妹はこの姿をみると、朝寝したことをぶつぶつ難じていたが、私は黙って便所へ這入はいった。

それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇くらやみがすべりちた。 私は思わずうわあわめき、頭に手をやって立上った。 あらしのようなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。 手探りで扉を開けると、縁側があった。 その時まで、私はうわあという自分の声を、ざあーというもの音の中にはっきり耳にきき、眼が見えないのでもだえていた。 しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはっきりして来た。

それはひどくいやな夢のなかの出来事に似ていた。 最初、私の頭に一撃が加えられ眼が見えなくなった時、私は自分がたおれてはいないことを知った。 それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。 そして、うわあと叫んでいる自分の声が何だか別人の声のように耳にきこえた。 しかし、あたりの様子がおぼろながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立っているような気持であった。 たしか、こういう光景は映画などで見たことがある。 濛々もうもうと煙る砂塵さじんのむこうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。 壁の脱落したところや、思いがけない方向から明りがして来る。 畳の飛散った坐板の上をそろそろ歩いて行くと、向うからさまじい勢で妹がけつけて来た。

「やられなかった、やられなかったの、大丈夫」と妹は叫び、「眼から血が出ている、早く洗いなさい」と台所の流しに水道が出ていることを教えてくれた。

私は自分が全裸体でいることを気付いたので、「とにかく着るものはないか」と妹を顧ると、妹は壊れ残った押入からうまくパンツを取出してくれた。 そこへ誰か奇妙な身振りで闖入ちんにゅうして来たものがあった。 顔を血だらけにし、シャツ一枚の男は工場の人であったが、私の姿を見ると、「あなたは無事でよかったですな」と云い捨て、「電話、電話、電話をかけなきゃ」とつぶやきながら忙しそうに何処どこかへ立去った。

いたるところに隙間すきまが出来、建具も畳も散乱した家は、柱としきいばかりがはっきりと現れ、しばし奇異な沈黙をつづけていた。 これがこの家の最後の姿らしかった。

序章-章なし
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夏の花 - 情報

夏の花

なつのはな

文字数 12,722文字

著者リスト:
著者原 民喜

底本 夏の花・心願の国

青空情報


底本:「夏の花・心願の国」新潮文庫、新潮社
   1973(昭和48)年7月30日発行
   2000(平成12)年4月25日39刷改版
初出:「三田文学」
   1947(昭和22)年6月号
※本作品は、「夏の花」三部作(「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」)のうちの一つである。底本では、「壊滅の序曲」「夏の花」「廃墟から」の順に収録されている。これは作品内容上の時間的な配列となっている。発表順は、「夏の花」「廃墟から」「壊滅の序曲」である。
※冒頭の三行は、「夏の花」三部作全体のはじめに掲げられているものである。
入力:砂場清隆
校正:noriko saito
2005年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:夏の花

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