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教育の目的

著者:福沢諭吉

きょういくのもくてき - ふくざわ ゆきち

文字数:5,631 底本発行年:1980
著者リスト:
著者福沢 諭吉
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序章-章なし

この一編は、頃日けいじつ、諭吉が綴るところの未定稿中より、教育の目的とも名づくべき一段を抜抄ばっしょうしたるものなれば、前後の連絡を断つがために、意をつくすに足らず、よってこれを和解わげ演述して、もって諸先生の高評を乞う。

教育の目的は、人生を発達して極度に導くにあり。 そのこれを導くは何のためにするやと尋ぬれば、人類をして至大の幸福を得せしめんがためなり。 その至大しだいの幸福とは何ぞや。 ここに文字の義を細かに論ぜずして民間普通の語を用うれば、天下泰平・家内安全、すなわちこれなり。 今この語の二字を取りて、かりにこれを平安の主義と名づく。 人として平安を好むは、これをその天性というべきか、はた習慣というべきか。 余は宗教の天然説を度外視する者なれば、天の約束というも、人為じんいの習慣というも、そのへんはこれを人々にんにんの所見にまかして問うことなしといえども、ただ平安を好むの一事にいたりては、古今人間の実際に行われてたがうことなきを知るべきのみ。 しからばすなわち教育の目的は平安にありというも、世界人類の社会に通用してさまたげあることなかるべし。

そもそも今日の社会に、いわゆる宗旨なり、徳教なり、政治なり、経済なり、その所論おのおのおもむきを一にせずして、はなはだしきは相互あいたがい背馳はいちするものもあるに似たれども、平安の一義にいたりては相違あいたがうなきを見るべし。 宗旨・徳教、何のためにするや。 善を勧めて精神の平安をいたすのみ。 政治、何のためにするや。 悪をらし害を防ぎて、もって心身の平安を助くるのみ。 経済、何のためにするや。 人工を便利にして形体の平安を増すのみ。 されば平安の主義は人生の達するところ、教育のとどまるところというも、はたして真実無妄むもうなるを知るべし。

人あるいはいわく、天下泰平・家内安全をもって人生教育の極度とするときは、野蛮無為むい羲昊ぎこう以上の民をもって人類のとどまるところとなすべし。 近くは我が徳川政府二百五十余年の泰平の如きは、すなわち至善至美ならんとの説もあれども、この説は事物の末を見て、そのもとを知らざる者のみ。 野蛮の無為、徳川の泰平の如きは、当時その人民の心身、あんはすなわち安なりといえども、その安は身外の事物、我に向って愉快を呈するに非ず。 外の事物の性質にかかわらずして、我が心身にこれを愉快なりと思うものにすぎず。 すなわち万民安堵あんど、腹をしてるを知ることなれども、その足るを知るとは、なし、足らざるを知らざりしのみ。

たとえば往古おうこ支那にて、天子の宮殿も、茆茨ぼうしらず、土階どかい三等さんとう、もって安しというといえども、その宮殿は真実安楽なる皇居に非ず。 かりに帝堯ていぎょうをして今日にあらしめなば、いかに素朴節倹なりといえども、段階に木石を用い、おくもまた瓦をもってくことならん。 また徳川の時代に、江戸にいて奥州おうしゅうの物を用いんとするに、飛脚ひきゃくを立てて報知して、先方より船便ふなびんに運送すれば、到着は必ず数月の後なれども、ただその物をさえ得れば、もって便利なりとしてよろこびしことなれども、今日は一報の電信に応じて、蒸気船便に送れば、数日にして用を弁ずべし。 数年の後、奥羽地方に鉄道を通ずるの日には、今の蒸気船便もまた、はなはだ遅々ちちたるを覚ゆることならん。

ゆえに、古人の便利とするところは、今日はなはだ不便なり。 今日の便利は、今後また不便とならん。 古人は今を知らずして、当時の事物を便利なりと思いしことにて、今人こんじんもまた今後を知らずして、今を安楽と思うのみ。 また近くこれをたとうれば、かの煙草を喫する者を見よ。 きんの価十銭の葉を喫するも、口にならざるに非ず。 その後二十銭のものを買い、これに慣るること数日なれば、またはじめの麁葉そようを喫すべからず。

ついでまた朋友親戚等より、某国産の銘葉めいようを得て、わずかに一、二管を試みたる後には、以前のものはこれを吸うべからざるのみならず、かたわらにこれをくんずる者あれば、その臭気をぐにも堪えず。 もしもいてみずからこれを用いんとすれば、ただ苦痛不快を覚うべきのみ。 これを吸煙の上達と称し、世人の実験においてあまねく知るところなり。 ひとしく同一の煙草にして、はじめはこれを喫して美なりしもの、今はかえって口に不快を覚えしむ。 然らばすなわちこの麁葉そようは、最初に美を呈したるに非ず、ただ我が当時の口にてこれを美と称し快楽と思いしのみ。 すなわち人生のはたらきの一ヵ条たる喫煙も、その力よく発達すれば、わずかに数日の間に苦楽のおもむきことにするの事実を見るべし。

ゆえに天下泰平・家内安全の快楽も、これを身にくる人の心身発達して、その働を高尚の域にすすむるときは、古代の平安は今世の苦痛不快たることあるべし。

序章-章なし
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教育の目的 - 情報

教育の目的

きょういくのもくてき

文字数 5,631文字

著者リスト:
著者福沢 諭吉

底本 福沢諭吉教育論集

親本 福沢諭吉選集 第3巻

青空情報


底本:「福沢諭吉教育論集」岩波文庫、岩波書店
   1991(平成3)年3月18日第1刷発行
底本の親本:「福沢諭吉選集 第3巻」岩波書店
   1980(昭和55)年12月18日第1刷発行
初出:「東京学士会員雑誌 第1号」
   1879(明治12)年6月発行
※底本276ページの注釈にある、前書を付加しました。レイアウトは他の論文に準拠しました。
※「貪(むさぼ)り」と「貪(むさ)ぼる」の混在は、底本通りにしました。
入力:田中哲郎
校正:noriko saito
2007年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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