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点頭録

著者:夏目漱石

てんとうろく - なつめ そうせき

文字数:12,655 底本発行年:1995
著者リスト:
著者夏目 漱石
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序章-章なし

また正月が来た。 振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。 何時の年齢としを取つたものか不思議な位である。

この感じをもう少し強めると、過去は夢としてさへ存在しなくなる。 全くの無になつてしまふ。 実際近頃のわたくしは時々たゞの無として自分の過去をくわんずる事がしば/\ある。 いつぞや上野へ展覧会を見に行つた時、公園の森の下を歩きながら、自分はある目的をもつて先刻さつきから足を運ばせてゐるにもかゝはらず、いまかつて一すんも動いてゐないのだと考へたりした。 これ耄碌もうろくの結果ではない。 うちを出て、電車に乗つて、山下で降りて、それから靴で大地の上をしかと踏んだといふ記憶をたしかにつた上の感じなのである。 自分は其時そのとき終日いていまかつかずといふ句が何処どこかにあるやうな気がした。 さうしてその句の意味はういふ心持を表現したものではなからうかとさへ思つた。

これをもつとづかしい哲学的な言葉でふと、畢竟ひつきやうずるに過去は一の仮象かしやうに過ぎないといふ事にもなる。 金剛経にある過去しん不可得ふかとくなりといふ意義にも通ずるかも知れない。 さうして当来たうらい念々ねん/\こと/″\刹那せつなの現在からすぐ過去に流れ込むものであるから、又瞬刻の現在から何等の段落なしに未来を生み出すものであるから、過去について云ひべき事は現在に就ても言ひべき道理であり、また未来にいても下しべき理窟であるとすると、一生はつひに夢よりも不確実なものになつてしまはなければならない。

ういふ見地からわれといふものを解釈したら、いくら正月が来ても、自分は決して年齢としを取るはずがないのである。 年齢としを取るやうに見えるのは、全く暦と鏡の仕業しわざで、その暦も鏡も実は無に等しいのである。

驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地をおほひ尽して儼存げんそんしてゐるといふ確実な事実である。 一挙手一投足の末に至るまでこのわれ」が認識しつゝ絶えず過去へ繰越くりこしてゐるといふ動かしがたい真境しんきやうである。 だから其処そこに眼を付けて自分のうしろを振り返ると、過去は夢どころではない。 炳乎へいことして明らかに刻下こくかの我をてらしつゝある探照燈のやうなものである。 従つて正月が来るたびに、自分は矢張り世間なみ年齢としを取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。

生活に対するこの二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに両存して、普通にいふ所の論理を超越してゐる異様な現象にいて、自分は今何も説明するつもりはない。 又解剖する手腕もたない。 たゞ年頭に際して、自分はこの一体二様の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流にまかせる覚悟をした迄である。

し無に即してへば、自分は今度の春を迎へる必要も何もない。 いな明治の始めから生れないのと同じやうなものである。 しかになづんで云へば、多病な身体からだが又一年き延びるにつれて、自分のすべき事はそれだけ量において増すのみならず、質においても幾分いくぶんか改良されないとも限らない。 従つて天が自分に又一年の寿命をしてれた事は、平常から時間の欠乏を感じてゐる自分に取つては、の位の幸福になるか分らない。 自分は出来るだけ余命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けてゐる。

趙州でうしう和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古仏晩年発心ほつしんと人にはれただけあつて、六十一になつてから初めて道にこゝろざした奇特きどくな心懸の人である。 七歳の童児なりとも、我にまさるものには我れすなはち彼に問はん、百歳の老翁らうをうなりとも我に及ばざる者には我れ即ちを教へんと云つて、南泉なんせんといふ禅坊さんの所へ行つて二十年間まずに修業を継続したのだから、卒業した時にはもう八十になつてしまつたのである。 それから趙州の観音院に移つて、始めて人を得度とくどし出した。 さうして百二十の高齢に至る迄化導けだうもつぱらにした。

寿命は自分の極めるものでないから、もとより予測は出来ない。 自分は多病だけれども、趙州の初発心しよほつしんの時よりもまだ十年も若い。 たとひ百二十まで生きないにしても、力の続く間、努力すればまだ少しは何か出来る様に思ふ。 それで私は天寿の許す限り趙州のひそみにならつて奮励する心組こゝろくみでゐる。 古仏とはれた人の真似まねも長命も、無論自分のぶんでないかも知れないけれども、羸弱るゐじやくなら羸弱るゐじやくなりに、現にわが眼前に開展する月日に対して、あらゆる意味においての感謝の意を致して、自己の天分のたけを尽さうと思ふのである。

序章-章なし
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点頭録 - 情報

点頭録

てんとうろく

文字数 12,655文字

著者リスト:
著者夏目 漱石

底本 漱石全集 第十六巻

青空情報


底本:「漱石全集 第十六巻」岩波書店
   1995(平成7)年4月19日発行
底本の親本:
   「点頭録六」「点頭録七」「点頭録八」「点頭録九」については原稿(岩波書店蔵)。
   それ以外については「東京朝日新聞」。
   掲載日は第一回から第五回までが、1916(大正5)年1月1日、10、12、13、14日である。
初出:「東京朝日新聞」および「大阪朝日新聞」。
   「東京朝日新聞」に第一回が1916(大正5)年1月1日に発表された。
   最終九回までの掲載日は、同10、12、13、14、17、19、20、21日である。
   「大阪朝日新聞」では、1月1日のあと、12日から15日、18日から21日までの九回である。
※ルビのうち亀甲かっこ〔〕付きのものは「漱石全集」編集部によるもので、現代仮名遣いである。
(例)墻壁(〔しょうへき〕)
※表題およびルビについて、底本の「後記」に次の記載がある(829ページ)。
「表題は原稿および新聞に従ったが、小見出しが同じものについては、「(一)」「(二)」などを補った。新聞は総ルビであるが、適宜削除した。」
入力:砂場清隆
校正:小林繁雄
2003年1月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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