• URLをコピーしました!

おせん

著者:邦枝完二

おせん - くにえだ かんじ

文字数:73,447 底本発行年:1955
著者リスト:
著者:邦枝 完二
0
0
0


序章-章なし

虫(むし)

一

「おッとッとッと。 そう乗(のり)出(だ)しちゃいけない。 垣根(かきね)がやわだ。 落着(おちつ)いたり、落着(おちつ)いたり」

「ふふふ。 あわててるな若旦那(わかだんな)、あっしよりお前(まえ)さんでげしょう」

「叱(し)ッ、静(しず)かに。 ――」

「こいつァまるであべこべだ。 どっちが宰領(さいりょう)だかわかりゃァしねえ」

が、それでも互(たがい)の声(こえ)は、ひそやかに触(ふ)れ合(あ)う草(くさ)の草(は)ずれよりも低(ひく)かった。

「まだかの」

「まだでげすよ」

「じれッてえのう、向(むこ)う臑(ずね)を蚊(か)が食(く)いやす」

「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)。 ――」

谷中(やなか)の感応寺(かんおうじ)を北(きた)へ離(はな)れて二丁(ちょう)あまり、茅葺(かやぶき)の軒(のき)に苔(こけ)持(も)つささやかな住居(すまい)ながら垣根(かきね)に絡(から)んだ夕顔(ゆうがお)も白(しろ)く、四五坪(つぼ)ばかりの庭(にわ)一杯(ぱい)に伸(の)びるがままの秋草(あきぐさ)が乱(みだ)れて、尾花(おばな)に隠(かく)れた女郎花(おみなえし)の、うつつともなく夢見(ゆめみ)る風情(ふぜい)は、近頃(ちかごろ)評判(ひょうばん)の浮世絵師(うきよえし)鈴木晴信(すずきはるのぶ)が錦絵(にしきえ)をそのままの美(うつく)しさ。 次第(しだい)に冴(さ)える三日月(みかづき)の光(ひか)りに、あたりは漸(ようや)く朽葉色(くちばいろ)の闇(やみ)を誘(さそ)って、草(くさ)に鳴(な)く虫(むし)の音(ね)のみが繁(しげ)かった。

「松(まっ)つぁん」

「へえ」

「たしかにここに、間違(まちが)いはあるまいの」

「冗談(じょうだん)じゃござんせんぜ、若旦那(わかだんな)。 こいつを間違(まちが)えたんじゃ、松(まつ)五郎(ろう)めくら犬(いぬ)にも劣(おと)りやさァ」

「だってお前(まえ)、肝腎(かんじん)の弁天様(べんてんさま)は、かたちどころか、影(かげ)も見(み)せやしないじゃないか」

「御辛抱(ごしんぼう)、御辛抱(ごしんぼう)、急(せ)いちゃァ事(こと)を仕損(しそん)じやす」

「ここへ来(き)てから、もう半時近(はんときちか)くも経(た)ってるんだよ。 それだのにお前(まえ)。 ――」

「でげすから、あっしは浅草(おくやま)を出(で)る時(とき)に、そう申(もう)したじゃござんせんか。 松(まつ)の位(くらい)の太夫(たゆう)でも、花魁(おいらん)ならば売(う)り物(もの)買(か)い物(もの)。 耳(みみ)のほくろはいうに及(およ)ばず、足(あし)の裏(うら)の筋数(すじかず)まで、読(よ)みたい時(とき)に読(よ)めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。 半時(はんとき)はおろか、事(こと)によったら一時(いっとき)でも二時(ふたとき)でも、垣根(かきね)のうしろにしゃがんだまま、お待(ま)ちンならなきゃいけませんと、念(ねん)をお押(お)し申(もう)した時(とき)に、若旦那(わかだんな)、あなたは何(な)んと仰(おっ)しゃいました。 当時(とうじ)、江戸(えど)の三人女(にんおんな)の随(ずい)一と名(な)を取(と)った、おせんの肌(はだ)が見(み)られるなら、蚊(か)に食(く)われようが、虫(むし)に刺(さ)されようが、少(すこ)しも厭(いと)うことじゃァない、好(す)きな煙草(たばこ)も慎(つつし)むし、声(こえ)も滅多(めった)に出(だ)すまいから、何(な)んでもかんでもこれから直(す)ぐに連(つ)れて行(い)け。 その換(かわ)りお礼(れい)は二分(ぶ)まではずもうし、羽織(はおり)もお前(まえ)に進呈(しんてい)すると、これこの通(とお)りお羽織(はおり)まで下(くだ)すったんじゃござんせんか。 それだのに、まだほんの、半時(はんとき)経(た)つか経(た)たないうちから、そんな我儘(わがまま)をおいいなさるんじゃ、お約束(やくそく)が違(ちが)いやす。 頂戴物(ちょうだいもの)は、みんなお返(かえ)しいたしやすから、どうか松(まつ)五郎(ろう)に、お暇(ひま)をおくんなさいやして。 ……」

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

おせん - 情報

おせん

おせん

文字数 73,447文字

著者リスト:
著者:邦枝 完二

底本 大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集

青空情報


底本:「大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集」河出書房
   1955(昭和30)年9月初版発行
   1955(昭和30)年11月30日8刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:松永正敏
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:おせん

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!