序章-章なし
虫
一
「おッとッとッと。
そう乗出しちゃいけない。
垣根がやわだ。
落着いたり、落着いたり」
「ふふふ。
あわててるな若旦那、あっしよりお前さんでげしょう」
「叱ッ、静かに。
――」
「こいつァまるであべこべだ。
どっちが宰領だかわかりゃァしねえ」
が、それでも互の声は、ひそやかに触れ合う草の草ずれよりも低かった。
「まだかの」
「まだでげすよ」
「じれッてえのう、向う臑を蚊が食いやす」
「御辛抱、御辛抱。
――」
谷中の感応寺を北へ離れて二丁あまり、茅葺の軒に苔持つささやかな住居ながら垣根に絡んだ夕顔も白く、四五坪ばかりの庭一杯に伸びるがままの秋草が乱れて、尾花に隠れた女郎花の、うつつともなく夢見る風情は、近頃評判の浮世絵師鈴木晴信が錦絵をそのままの美しさ。
次第に冴える三日月の光りに、あたりは漸く朽葉色の闇を誘って、草に鳴く虫の音のみが繁かった。
「松つぁん」
「へえ」
「たしかにここに、間違いはあるまいの」
「冗談じゃござんせんぜ、若旦那。
こいつを間違えたんじゃ、松五郎めくら犬にも劣りやさァ」
「だってお前、肝腎の弁天様は、かたちどころか、影も見せやしないじゃないか」
「御辛抱、御辛抱、急いちゃァ事を仕損じやす」
「ここへ来てから、もう半時近くも経ってるんだよ。
それだのにお前。
――」
「でげすから、あっしは浅草を出る時に、そう申したじゃござんせんか。
松の位の太夫でも、花魁ならば売り物買い物。
耳のほくろはいうに及ばず、足の裏の筋数まで、読みたい時に読めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。
半時はおろか、事によったら一時でも二時でも、垣根のうしろにしゃがんだまま、お待ちンならなきゃいけませんと、念をお押し申した時に、若旦那、あなたは何んと仰しゃいました。
当時、江戸の三人女の随一と名を取った、おせんの肌が見られるなら、蚊に食われようが、虫に刺されようが、少しも厭うことじゃァない、好きな煙草も慎むし、声も滅多に出すまいから、何んでもかんでもこれから直ぐに連れて行け。
その換りお礼は二分まではずもうし、羽織もお前に進呈すると、これこの通りお羽織まで下すったんじゃござんせんか。
それだのに、まだほんの、半時経つか経たないうちから、そんな我儘をおいいなさるんじゃ、お約束が違いやす。
頂戴物は、みんなお返しいたしやすから、どうか松五郎に、お暇をおくんなさいやして。
……」