一片の石
著者:會津八一
いっぺんのいし - あいづ やいち
文字数:2,964 底本発行年:1980
人間が石にたよるやうになつて、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやつてゐる。
石にたより、石に縋り、石を崇め、石を拝む。
この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。
いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひは何処の
なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、凡そ人間の手わざで、遠い時代から遺つてゐるものはある。 しかし遺つてゐるといつても、時代にもよるが、少し古いところは、作られた数に較べると、千に一つにも当らない。 つまり、石といへども、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものではない。 それに野火や山火事が崩壊を早めることもある。 いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、まだ世間が忘れきらぬうちから、もう押し倒されて、倉の土台や石垣の下積みになることもある。 追慕だ研究だといつて跡を絶たない人たちの、搨拓の手のために、磨滅を促すこともある。 そこで漢の時代には、いづれの村里にも、あり余るほどあつた石碑が、今では支那全土で百基ほどしか遺つてゐない。 国破れて山河ありといふが、国も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思ひを籠めた記念物が、もう無くなつてゐることは、いくらもある。 まことに寂しいことである。
むかし晋の世に、羊
といふ人があつた。
学識もあり、手腕もあり、情味の深い、立派な大官で、晋の政府のために、呉国の懐柔につくして功があつた。
この人は平素山水の眺めが好きで、襄陽に在任の頃はいつもすぐ近い
山といふのに登つて、酒を飲みながら、友人と詩などを作つて楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人に向つて、一体この山は、宇宙開闢の初めからあるのだから、昔からずゐぶん偉い人たちも遊びにやつて来てゐるわけだ。
それがみんな湮滅して何の云ひ伝へも無い。
こんなことを考へると、ほんとに悲しくなる。
もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の魂魄は必ずここへ登つて来る、と嘆いたものだ。
そこでその友人が、いやあなたのやうに功績の大きな、感化の深い方は、その令聞は永くこの山とともに、いつまでも世間に伝はるにちがひありませんと、やうやくこのさびしい気持を慰めたといふことである。
それから間もなくこの人が亡くなると、果して土地の人民どもは金を出し合つてこの山の上に碑を立てた。
すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙に暮れたものであつた。
そのうちに堕涙の碑といふ名もついてしまつた。
同じ頃、晋の貴族に杜預といふ人があつた。
年は羊
よりも一つ下であつたが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかつた。
襄陽へ出かけて来て、やはり呉の国を平げることに手柄があつた。
堕涙の碑といふ名なども、実はこの人がつけたものらしい。
羊
とは少し考へ方が違つてゐたが、この人も、やはりひどく身後の名声を気にしてゐた。
そこで自分の一生の業績を石碑に刻んで、二基同じものを作らせて、一つを同じ
山の上に立て、今一つをば漢江の深い淵に沈めさせた。
万世の後に、如何なる天変地異が起つて、よしんば山上の一碑が蒼海の底に隠れるやうになつても、その時には、たぶん谷底の方が現はれて来る。
こんな期待をかけてゐたものと見える。
ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。