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檸檬

著者:梶井基次郎

れもん - かじい もとじろう

文字数:4,848 底本発行年:1933
著者リスト:
著者梶井 基次郎
底本: 創作 檸檬
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序章-章なし

えたいの知れない不吉ふきつな塊が私の心を始終壓へつけてゐた。 焦燥と云はうか、嫌惡と云はうか――酒を飮んだあとに宿醉ふつかよひがあるやうに、酒を毎日飮んでゐると宿醉に相當した時期がやつて來る。 それが來たのだ。 これはちよつといけなかつた。 結果した肺尖カタルや神經衰弱がいけないのではない。 また脊を燒くやうな借金などがいけないのではない。 いけないのはその不吉な塊だ。 以前いぜん私を喜ばせたどんな美しい音樂も、どんな美しい詩の一節も辛抱がならなくなつた。 蓄音器を聽かせて貰ひにわざわざ出かけて行つても、最初の二三小節で不意に立ち上つてしまひたくなる。 何かが私を居堪ゐたまらずさせるのだ。 それで始終私はまちから街を浮浪し續けてゐた。

何故だか其頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのをおぼえてゐる。 風景にしてもくづれかかつた街だとか、その街にしても他所他所よそよそしい表通よりもどこかしたしみのある、汚い洗濯物が干してあつたりがらくたが轉してあつたりむさくるしい部屋が覗いてゐたりする裏通が好きであつた。 雨や風がむしばんでやがて土に歸つてしまふ。 と云つたやうなおもむきのある街で、土塀がくづれてゐたり家竝が傾きかかつてゐたり――勢ひのいいのは植物だけで時とすると吃驚びつくりさせるやうな向日葵ひまはりがあつたりカンナが咲いてゐたりする。

時どき私はそんな路を歩きながら、不圖ふと、其處が京都ではなくて京都から何百里も離れた仙臺とか長崎とか――そのやうなまちへ今自分が來てゐるのだ――といふ錯覺を起さうと努める。 私は、出來ることなら京都から逃出して誰一人だれひとり知らないやうな市へ行つてしまひたかつた。 第一に安靜。 がらんとした旅館の一室。 清淨な蒲團。 匂ひのいい蚊帳かやのりのよく利いた浴衣ゆかた 其處で一月ほど何も思はず横になりたい。 希はくは此處が何時のにかその市になつてゐるのだつたら。 ――錯覺がやうやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の繪具ゑのぐを塗りつけてゆく。 何のことはない、私の錯覺とくづれかかつた街との二重寫しである。 そして私はその中に現實の私自身を見失ふのを樂しんだ。

私はまたあの花火はなびといふ奴が好きになつた。 花火そのものは第二段として、あの安つぽい繪具で赤や紫や黄や青や、樣ざまの縞模樣しまもやうを持つた花火の束、中山寺の星下ほしくだり、花合戰はながつせん、枯れすすき。 それから鼠花火ねづみはなびといふのは一つづつ輪になつてゐて箱に詰めてある。 そんなものが變に私の心を唆つた。

それからまた、びいどろといふ色硝子で鯛や花を打出うちだしてあるおはじきが好きになつたし、南京玉なんきんだまが好きになつた。 またそれをめて見るのが私にとつて何ともいへない享樂きようらくだつたのだ。 あのびいどろの味ほどかすかな凉しい味があるものか。 私は幼い時よくそれを口に入れては父母に叱られたものだが、その幼時のあまい記憶が大きくなつて落魄おちぶれた私によみがへつて來るせゐだらうか、全くあの味には幽かなさはやかな何となく詩美と云つたやうな味覺が漂つてゐる。

察しはつくだらうが私にはまるで金がなかつた。 とは云へそんなものを見て少しでも心の動きかけた時の私自身を慰める爲には贅澤といふことが必要であつた。 二錢や三錢のもの――と云つて贅澤なもの。 美しいもの――と云つて無氣力な私の觸角しよくかくに寧ろ媚びて來るもの。 ――さう云つたものが自然しぜん私を慰めるのだ。

序章-章なし
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檸檬 - 情報

檸檬

れもん

文字数 4,848文字

著者リスト:

底本 創作 檸檬

青空情報


底本:「檸檬」十字屋書店
   1933(昭和8)年12月1日発行
   1940(昭和15)年12月20日第2刷発行
初出:「青空」
   1925(大正14)年1月
入力:高柳典子
校正:小林繁雄
2006年7月20日作成
2011年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:檸檬

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