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地上 地に潜むもの

著者:島田清次郎

ちじょう - しまだ せいじろう

文字数:174,623 底本発行年:1919
著者リスト:
著者島田 清次郎
底本: 地上
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序章-章なし

虐げらるゝ者の涙流る

之を慰むる者あらざる

なり  ――傳道之書

[#改丁]

第一章

大河平一郎が学校から遅く帰って来ると母のお光は留守でいなかった。 二階の上り口の四畳の室の長火鉢の上にはいつも不在の時するように彼宛ての短い置手紙がしてあった。 「今日は冬子ねえさんのところへ行きます。 夕飯までには帰りますから、ひとりでごはんをたべて留守をしていて下さい。 母」平一郎は彼の帰宅を待たないで独り行った母を少し不平に思ったが、何より腹がいていた。 彼は置かれてあるお膳の白い布片を除けて蓮根の煮〆に添えて飯をかきこまずにいられなかった。 そうして四、五杯も詰めこんで腹が充ちて来ると、今日の学校の帰りでの出来事が想い起こされて来た。 今日は土曜で学校は午前に退けるのだった。 級長である彼は掃除番の監督を早くすまして、桜の並樹の下路したみちを校門の方へ急いで来ると、門際で誰かが言いあっていた。 近よってみると、二度も落第した、体の巨大な、柔道初段の長田が(彼は学校を自分一人の学校のように平常ふだんからあつかっていた)美少年の深井に、「稚子ちごさん」になれ、と脅迫しているところだった。

「いいかい、深井、な」と長田は深井の肘をつかもうとした。

「何する!」深井は頬を美しい血色に染めながら振り払った。

「え、深井、おれの言うことをきかないと為にならないよ」長田の伸ばす腕力に充ちた腕を深井はしたたかに打った。 そうして組み打ちがはじまった。 無論深井は長田の敵ではなかった。 道傍の芝生に組み敷かれて柔らかくふくらんだ瞳からは涙がにじみ出ているのを見たときには、平一郎は深井の健気な勇気に同情せずにいられなかった。 彼は下げていた鞄をそこに投げ出していきなりうしろから長田の頬をなぐりつけた。

「誰だ※(疑問符感嘆符、1-8-77)

おれだ!」振り向いた長田はそれが平一郎であるのに少したじろいだらしかった。 腕力の強いものにあり勝ちな、権威の前に臆病な心を長田も持っていたのだ。 そして平一郎が少なくともクラスの統治者であることをも彼は十分知っていたからだ。 ひるむところを平一郎はもう一つ耳のあたりに拳固をあてた。 「深井をはなしてやれ!」「ううむ」それで長田は手をゆるめて立ち上がった。

「大河だな」

「そうよ」平一郎は長田を見上げて、必死の覚悟で答えた。

「覚えておれ! 大河!」

「覚えているとも! 生意気だ、深井を稚子さんにしようなんて!」

するうちに組み敷かれていた深井が起きあがって、黒い睫毛の長い眼に涙をにじまして、洋服の泥をはたいていた。 長田は平一郎と深井を睨み比べていたが、「大河、お前こそ、おかしいぞ!」と呟いて、そして悠々と立ち去ってしまった。 平一郎は自分が自分よりも腕力の強い長田を逃げ出さしたことに多少の快感を感じつつ、平生あまり親しくはしていないが深井を家まで一緒に送って行くことは自分の責任であるように感じた。 二人は路々一言も口をきかなかったが、妙に一種の感情が湧いていて、それが一種の気恥かしさを生ぜしめていた。 時折信頼するように見上げる深い瞳の表情は、平一郎にある堪らない美と誇らしさをもたらした。 平一郎は実際、自分と深井とは少しおかしくなったと思った。 寂しい杉垣の青々した昔の屋敷町に深井の家があった。

序章-章なし
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地上 - 情報

地上 地に潜むもの

ちじょう ちにひそむもの

文字数 174,623文字

著者リスト:

底本 地上

親本 地上―第一部・地に潜むもの

青空情報


底本:「地上――地に潜むもの」季節社
   2002(平成14)年10月15日初版発行
底本の親本:「地上――第一部・地に潜むもの」新潮社
   1919(大正8)年6月10日初版発行
入力:西村達人
校正:松永正敏
2006年3月28日作成
2015年4月12日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:地上

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