地上 地に潜むもの
著者:島田清次郎
ちじょう - しまだ せいじろう
文字数:174,623 底本発行年:1919
虐げらるゝ者の涙流る
之を慰むる者あらざる
なり ――傳道之書
[#改丁]
第一章
大河平一郎が学校から遅く帰って来ると母のお光は留守でいなかった。
二階の上り口の四畳の室の長火鉢の上にはいつも不在の時するように彼宛ての短い置手紙がしてあった。
「今日は冬子ねえさんのところへ行きます。
夕飯までには帰りますから、ひとりでごはんをたべて留守をしていて下さい。
母」平一郎は彼の帰宅を待たないで独り行った母を少し不平に思ったが、何より腹が
「いいかい、深井、な」と長田は深井の肘をつかもうとした。
「何する!」深井は頬を美しい血色に染めながら振り払った。
「え、深井、
「誰だ
」
「
「大河だな」
「そうよ」平一郎は長田を見上げて、必死の覚悟で答えた。
「覚えておれ! 大河!」
「覚えているとも! 生意気だ、深井を稚子さんにしようなんて!」
するうちに組み敷かれていた深井が起きあがって、黒い睫毛の長い眼に涙をにじまして、洋服の泥をはたいていた。 長田は平一郎と深井を睨み比べていたが、「大河、お前こそ、おかしいぞ!」と呟いて、そして悠々と立ち去ってしまった。 平一郎は自分が自分よりも腕力の強い長田を逃げ出さしたことに多少の快感を感じつつ、平生あまり親しくはしていないが深井を家まで一緒に送って行くことは自分の責任であるように感じた。 二人は路々一言も口をきかなかったが、妙に一種の感情が湧いていて、それが一種の気恥かしさを生ぜしめていた。 時折信頼するように見上げる深い瞳の表情は、平一郎にある堪らない美と誇らしさをもたらした。 平一郎は実際、自分と深井とは少しおかしくなったと思った。 寂しい杉垣の青々した昔の屋敷町に深井の家があった。