序章-章なし
〔冒頭原稿一枚?なし〕
以外の物質は、みなすべて、よくこれを摂取して、脂肪若くは蛋白質となし、その体内に蓄積す。」
とこう書いてあったから、農学校の畜産の、助手や又小使などは金石でないものならばどんなものでも片っ端から、持って来てほうり出したのだ。
尤もこれは豚の方では、それが生れつきなのだし、充分によくなれていたから、けしていやだとも思わなかった。
却ってある夕方などは、殊に豚は自分の幸福を、感じて、天上に向いて感謝していた。
というわけはその晩方、化学を習った一年生の、生徒が、自分の前に来ていかにも不思議そうにして、豚のからだを眺めて居た。
豚の方でも時々は、あの小さなそら豆形の怒ったような眼をあげて、そちらをちらちら見ていたのだ。
その生徒が云った。
「ずいぶん豚というものは、奇体なことになっている。
水やスリッパや藁をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。
豚のからだはまあたとえば生きた一つの触媒だ。
白金と同じことなのだ。
無機体では白金だし有機体では豚なのだ。
考えれば考える位、これは変になることだ。」
豚はもちろん自分の名が、白金と並べられたのを聞いた。
それから豚は、白金が、一匁三十円することを、よく知っていたものだから、自分のからだが二十貫で、いくらになるということも勘定がすぐ出来たのだ。
豚はぴたっと耳を伏せ、眼を半分だけ閉じて、前肢をきくっと曲げながらその勘定をやったのだ。
20×1000×30=600000 実に六十万円だ。
六十万円といったならそのころのフランドンあたりでは、まあ第一流の紳士なのだ。
いまだってそうかも知れない。
さあ第一流の紳士だもの、豚がすっかり幸福を感じ、あの頭のかげの方の鮫によく似た大きな口を、にやにや曲げてよろこんだのも、けして無理とは云われない。
ところが豚の幸福も、あまり永くは続かなかった。
それから二三日たって、そのフランドンの豚は、どさりと上から落ちて来た一かたまりのたべ物から、(大学生諸君、意志を鞏固にもち給え。
いいかな。)たべ物の中から、一寸細長い白いもので、さきにみじかい毛を植えた、ごく率直に云うならば、ラクダ印の歯磨楊子、それを見たのだ。
どうもいやな説教で、折角洗礼を受けた、大学生諸君にすまないが少しこらえてくれ給え。
豚は実にぎょっとした。
一体、その楊子の毛をみると、自分のからだ中の毛が、風に吹かれた草のよう、ザラッザラッと鳴ったのだ。
豚は実に永い間、変な顔して、眺めていたが、とうとう頭がくらくらして、いやないやな気分になった。
いきなり向うの敷藁に頭を埋めてくるっと寝てしまったのだ。
晩方になり少し気分がよくなって、豚はしずかに起きあがる。
気分がいいと云ったって、結局豚の気分だから、苹果のようにさくさくし、青ぞらのように光るわけではもちろんない。
これ灰色の気分である。
灰色にしてややつめたく、透明なるところの気分である。
さればまことに豚の心もちをわかるには、豚になって見るより致し方ない。
外来ヨークシャイヤでも又黒いバアクシャイヤでも豚は決して自分が魯鈍だとか、怠惰だとかは考えない。
最も想像に困難なのは、豚が自分の平らなせなかを、棒でどしゃっとやられたとき何と感ずるかということだ。
さあ、日本語だろうか伊太利亜語だろうか独乙語だろうか英語だろうか。
さあどう表現したらいいか。
さりながら、結局は、叫び声以外わからない。