島原の乱雑記
著者:坂口安吾
しまばらのらんざっき - さかぐち あんご
文字数:9,149 底本発行年:1941
一 三万七千人
島原の乱で三万七千の農民が死んだ。
三万四千は戦死し、生き残つた三千名の女と子供が、落城の翌日から三日間にわたつて斬首された。
みんな喜んで死んだ。
喜んで死ぬとは異様であるが、討伐の上使、松平
三千人の女子供がひそんでゐたといふ
原城趾は、往昔の原形を殆どくづしてゐない。
有明の海を背に、海に吃立した百尺の丘、前面右方に温泉岳を望んでゐる。
三万七千人戦死の時、このあたりの数里四方は住民が全滅した。
布津、堂崎、有馬、有家、口之津、加津佐、串山の諸村は全滅。
深江、安徳、小浜、中木場、三会等々は村民の半数が一揆に加担して死んだ。
だから、落城後、三万七千の屍体をとりかたづける人足もなく、まして、あとを耕す一人の村民の姿もなかつた。
白骨の隙間に雑草が繁り、なまぐさい風に頭をふり、島原半島は無人のまゝ、十年すぎた。
十年目に骨を集め、九州諸国の僧をよびよせ、数夜にわたつて懇に供養し、他国から農民を移住せしめた。
だから、今の村民は、まつたく
私は城趾の入口を探して道にまよひ、昔は天草丸といつた砦の下にあたる浜辺の松林で、漁夫らしい人に道をきいた。 返事をしてくれなかつた。 重ねてきいたら、突然ぢやけんに、歩きだして行つてしまつた。 子供達をつかまへてきいたが、これも逃げて行つてしまつた。 すると、十四五間も離れた屋根の下から、思ひもよらぬ女の人が走りでゝ来て、ていねいに教へてくれた。 宿屋で、何か切支丹のことを聞きださうとしたが、主婦は、私の言葉が理解できないらしく、やゝあつてのち、このあたりではキリスト教を憎んでゐます、と言つた。
二 原因
島原の乱の原因は、俗説では切支丹の反乱と言はれてきたが、今日、一般の定説では、領主の
然し、重税の内容がどのやうなものであつたか、この文章からは分らない。 牛馬書子令文状といふものがどのやうなものであるか、それすらも分らないのだ。 又、日本に残る記録には、之に就て語るものが、まつたくない。 たゞ、教会側に、ポルトガルの船長ヂュアルテ・コレアの手記があり、これによつて、推察しうるにすぎない。 コレアは、一揆の当時、大村の牢屋にゐたのである。
コレアの手記によれば、農民は米、大麦、小麦で一般租税を払ひ、更に Nono と Canga のいづれかを収めなければならなかつた。
そのうへ、煙草一株につき
ノノ及びカンガとは何物か。
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島原の乱雑記 - 情報
青空情報
底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第八号」大観堂
1941(昭和16)年9月25日発行
初出:「現代文学 第四巻第八号」大観堂
1941(昭和16)年9月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
青空文庫:島原の乱雑記