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南国太平記

著者:直木三十五

なんごくたいへいき - なおき さんじゅうご

文字数:486,604 底本発行年:1989
著者リスト:
著者直木 三十五
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呪殺変

高い、梢の若葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木、老樹の下蔭は、薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、未だ濡れていた。

樵夫きこり、猟師でさえ、時々にしか通らない細いみちは、草の中から、ほんの少しのあか土を見せているだけで、両側から、枝が、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、からかいかかるくらいに延びていた。

その細径の、灌木の上へ、草の上へ、陣笠を、肩を、見せたり、隠したりしながら、二人の人が、登って行った。 陣笠は、裏金だから士分であろう。 前へ行くその人は、六十近い、白髯しらひげの人で、後方うしろのは供人であろうか? 肩から紐で、木箱を腰に垂れていた。 二人とも、白い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折はしょって、紺脚絆きゃはんだ。

老人は、長い杖で左右の草を、掻き分けたり、たたいたり、撫でたり、供の人も、同じように、草の中を注意しながら、登って行った。

老人は、島津家の兵道家、加治木玄白斎かじきげんぱくさいで、供は、その高弟の和田仁十郎だ。 博士王仁わにがもたらした「軍勝図」が大江家から、源家へ伝えられたが、それを秘伝しているのが、源家の末の島津家で、玄白斎は、その秘法を会得している人であった。

口伝くでん玄秘げんぴの術として、明らかになっていないが、医術と、祈祷きとうとを基礎とした呪詛じゅそ調伏ちょうぶく術の一種であった。 だから、その修道すどう者として、薬学の心得のあった玄白斎は、島津重豪しげひでが、薬草園を開き、蘭法医戸塚静海を、藩医員として迎え、ヨーンストンの「阿蘭陀本草和解」、「薬海鏡原」などが訳されるようになると、薬草に興味をもっていて、隠居をしてから五六年、初夏から秋へかけて、いつも山野へ分け入っていた。

行手の草が揺らいで、足音がした。 玄白斎は、杖を止めて立止まった。 仁十郎も、警戒した。 現れたのは猟師で、鉄砲を引きずるように持ち、小脇に、重そうな獲物を抱えていた。 猟師が二人を見て、ちらっと上げた眼は、赤くて、悲しそうだった。 そして、小脇の獣には首が無かった。 疵口には、血が赤黒く凝固し、毛も血で固まっていた。 猟師は、一寸立止まって、二人に道を譲って、御叩頭おじぎをした。 玄白斎は、その首のない獣と、猟師の眼とに、不審を感じて

「それは?」

と、聞いた。 猟師は、伏目で、悲しそうに獣を眺めてから

「わしの犬でがすよ」

「犬が――何んとして、首が無いのか?」

猟師は、草叢くさむらへ鉄砲を下ろして、そのかたわらへ首の切取られた犬を置いた。 犬は、脚を縮めて、ミイラの如くかたくなってころがった。 疵は頸にだけでなく、胸まで切裂かれてあった。

「どこの奴だか、ひどいことをするでねえか、御侍様、昨夜方ゆうべがた、そこの岩んとこで、焚火する奴があっての、こいつが見つけて吠えて行ったまま戻って来ねえで――」

猟師は、うつむいて涙声になった。

「長い間、忠義にしてくれた犬だもんだから、庭へでも埋めてやりてえと、こうして持って戻りますところだよ」

玄白斎は、じっと、犬を眺めていたが

「よく、葬ってやるがよい」

玄白斎は、仁十郎に目配せして、また、草叢をたたきながら歩き出した。

「気をつけて行かっし――天狗様かも知れねえ」

猟師は、草の中に手をついて、二人に、御叩頭をした。

細径は、急ではないが、登りになった。 玄白斎は、うつむいて、杖を力に――だが、目だけは、左右の草叢に、そそがれていた。 小一町登ると、左手に蒼空が、果てし無く拡がって、杉の老幹が矗々すくすくと聳えていた。

呪殺変

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南国太平記 - 情報

南国太平記

なんごくたいへいき

文字数 486,604文字

著者リスト:

底本 直木三十五作品集

青空情報


底本:「直木三十五作品集」文藝春秋
   1989(平成元)年2月15日第1刷
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:松永正敏
2007年3月7日作成
2012年3月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:南国太平記

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