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高瀬舟

著者:森鴎外

たかせぶね - もり おうがい

文字数:8,723 底本発行年:1938
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著者森 鴎外
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序章-章なし

高瀬舟たかせぶねは京都の高瀬川たかせがわ上下じょうげする小舟である。 徳川時代に京都の罪人が遠島えんとうを申し渡されると、本人の親類が牢屋敷ろうやしきへ呼び出されて、そこで暇乞いとまごいをすることを許された。 それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪おおさかへ回されることであった。 それを護送するのは、京都町奉行まちぶぎょうの配下にいる同心どうしんで、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一にんを大阪まで同船させることを許す慣例であった。 これはかみへ通った事ではないが、いわゆる大目に見るのであった、黙許であった。

当時遠島を申し渡された罪人は、もちろん重いとがを犯したものと認められた人ではあるが、決して盗みをするために、人を殺し火を放ったというような、獰悪どうあくな人物が多数を占めていたわけではない。 高瀬舟に乗る罪人の過半は、いわゆる心得違いのために、思わぬ科を犯した人であった。 有りふれた例をあげてみれば、当時相対死あいたいしと言った情死をはかって、相手の女を殺して、自分だけ生き残った男というようなたぐいである。

そういう罪人を載せて、入相いりあいの鐘の鳴るころにこぎ出された高瀬舟は、黒ずんだ京都の町の家々を両岸に見つつ、東へ走って、加茂川かもがわを横ぎって下るのであった。 この舟の中で、罪人とその親類の者とは夜どおし身の上を語り合う。 いつもいつも悔やんでも返らぬごとである。 護送の役をする同心どうしんは、そばでそれを聞いて、罪人を出した親戚眷族しんせきけんぞくの悲惨な境遇を細かに知ることができた。 所詮しょせん町奉行の白州しらすで、表向きの口供こうきょうを聞いたり、役所の机の上で、口書くちがきを読んだりする役人の夢にもうかがうことのできぬ境遇である。

同心を勤める人にも、いろいろの性質があるから、この時ただうるさいと思って、耳をおおいたく思う冷淡な同心があるかと思えば、またしみじみと人の哀れを身に引き受けて、役がらゆえ気色けしきには見せぬながら、無言のうちにひそかに胸を痛める同心もあった。 場合によって非常に悲惨な境遇に陥った罪人とその親類とを、特に心弱い、涙もろい同心が宰領してゆくことになると、その同心は不覚の涙を禁じ得ぬのであった。

そこで高瀬舟の護送は、町奉行所の同心仲間で不快な職務としてきらわれていた。

――――――――――――――――

いつのころであったか。 たぶん江戸で白河楽翁侯しらかわらくおうこう政柄せいへいを執っていた寛政のころででもあっただろう。 智恩院ちおんいんの桜が入相いりあいの鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。

それは名を喜助きすけと言って、三十歳ばかりになる、住所不定じゅうしょふじょうの男である。 もとより牢屋敷ろうやしきに呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人ひとりで乗った。

護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ同心羽田庄兵衛はねだしょうべえは、ただ喜助が弟殺しの罪人だということだけを聞いていた。 さて牢屋敷から棧橋さんばしまで連れて来る間、この痩肉やせじしの、色の青白い喜助の様子を見るに、いかにも神妙しんびょうに、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬って、何事につけても逆らわぬようにしている。 しかもそれが、罪人の間に往々見受けるような、温順を装って権勢にびる態度ではない。

庄兵衛は不思議に思った。 そして舟に乗ってからも、単に役目の表で見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしていた。

その日は暮れ方から風がやんで、空一面をおおった薄い雲が、月の輪郭をかすませ、ようよう近寄って来る夏のあたたかさが、両岸の土からも、川床かわどこの土からも、もやになって立ちのぼるかと思われるであった。 下京しもきょうの町を離れて、加茂川を横ぎったころからは、あたりがひっそりとして、ただへさきにさかれる水のささやきを聞くのみである。

夜舟よふねで寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙っている。 その額は晴れやかで目にはかすかなかがやきがある。

庄兵衛はまともには見ていぬが、始終喜助の顔から目を離さずにいる。 そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返している。 それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気がねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。

庄兵衛は心の内に思った。 これまでこの高瀬舟の宰領をしたことは幾たびだか知れない。 しかし載せてゆく罪人は、いつもほとんど同じように、目も当てられぬ気の毒な様子をしていた。 それにこの男はどうしたのだろう。 遊山船ゆさんぶねにでも乗ったような顔をしている。

序章-章なし
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高瀬舟 - 情報

高瀬舟

たかせぶね

文字数 8,723文字

著者リスト:
著者森 鴎外

底本 山椒大夫・高瀬舟他四篇

青空情報


底本:「山椒大夫・高瀬舟」岩波文庫
   1938(昭和13)年7月1日第1刷発行
   1967(昭和42)年6月16日第34刷改版発行
   1998(平成10)年4月6日第77刷発行
初出:「中央公論 第31年第1号」
   1916(大正5)年1月1日発行
入力:kompass
校正:土屋隆
2006年3月8日作成
2011年4月27日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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