• URLをコピーしました!

厭世詩家と女性

著者:北村透谷

えんせいしかとじょせい - きたむら とうこく

文字数:6,329 底本発行年:1974
著者リスト:
著者北村 透谷
0
0
0


序章-章なし

恋愛は人世の秘鑰ひやくなり、恋愛ありて後人世あり、恋愛をき去りたらむには人生何の色味かあらむ、然るに尤も多く人世を観じ、尤も多く人世の秘奥を究むるといふ詩人なる怪物の尤も多く恋愛に罪業を作るは、如何いかなることわりぞ。 古往今来詩家の恋愛に失する者、挙げて数ふ可からず、遂に女性をして嫁して詩家の妻となるを戒しむるに至らしめたり、詩家あに無情の動物ならむ、否、其濃情なる事、常人に幾倍する事いちじるし、然るに綢繆ちうびう終りを全うする者すくなきは何故ぞ。 ギヨオテの鬼才を以て、後人をして彼のかしら黄金こがね、彼の心は是れ鉛なりと言はしめしも、其恋愛に対する節操全からざりければなり。 バイロンの嵩峻を以ても、の貞淑寡言の良妻をして狂人と疑はしめ、去つて以太利イタリーに飄泊するに及んでは、妻ある者、むすめある者をしてバイロンの出入を厳にせしめしが如き。 或はシヱレイの合歓がふくわん未だ久しからざるに妻は去つて自ら殺し、郎もた天命を全うせざりしが如き。 彼の高厳荘重なるミルトンまでも一度は此轍このてつふまんとし、嶢※げうかく[#「山+角」、63-上-15]豪逸なるカーライルさへ死後に遺筆をするに至りて、合歓団欒だんらんならざりし醜を発見せられぬ。 其他マルロー、ベン・ジヨンソン以下を数へなば、誰か詩人の妻たるを怖れぬ者のあるべき。

思想と恋愛とは仇讐なるか、いづくんぞ知らむ、恋愛は思想を高潔ならしむる※(「女+爾」、第4水準2-5-85)じぼなるを。 ヱマルソン言へる事あり、尤も冷淡なる哲学者といへども、恋愛の猛勢に駆られて逍遙徘徊せし少壮なりし時の霊魂が負ふたるおひめかへす事能はずと。 恋愛は各人の胸裡きようりに一墨痕を印して、ほかには見ゆ可からざるも、終生まつする事能はざる者となすの奇跡なり。 然れども恋愛は一見して卑陋ひろう暗黒なるが如くに其実性の卑陋暗黒なる者にあらず。 恋愛を有せざる者は春来ぬ樹立きだちの如く、何となく物寂しき位地に立つ者なり、而して各人各個に人生の奥義の一端に入るを得るは、恋愛の時期を通過しての後なるべし。 夫れ恋愛は透明にして美の真を貫ぬく、恋愛あらざる内は社会は一個の他人なるが如くに頓着あらず、恋愛ある後は物のあはれ、風物の光景、何となく仮を去つて実に就き、隣家より我家に移るが如く覚ゆるなれ。

けだし人は生れながらにして理性を有し、希望を蓄へ、現在に甘んぜざる性質あるなり。 社会の※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)いんえんに苦しめられず真直まつすぐに伸びたる小児は、本来の想世界に生長し、実世界を知らざる者なり。 然れども生活の一代に実世界と密接し、抱合せられざる者はなけむ、必ずや其想世界即ち無邪気の世界と実世界即ち浮世又は娑婆しやばと称する者と相争ひ、相睨あひにらむ時期に達するを免れず。 実世界は強大なる勢力なり、想世界は社界の不調子を知らざるうちにこそ成立すべけれ、既に浮世の刺衝ししように当りたる上は、しや苦戦搏闘するとても、遂には弓折れ尽くるの非運を招くに至るこそ理の数なれ。 此時、想世界の敗将気はゞみ心疲れて、何物をか得て満足を求めんとす、労力義務等は実世界の遊軍にして常に想世界をうかゞふ者、其他百般の事物彼に迫つて剣鎗相接爾せつじす、彼を援くる者、彼を満足せしむる者、果して何物とかなす、曰く恋愛なり、美人を天の一方に思求し、輾転反側する者、実に此際に起るなり。 生理上にて男性なるが故に女性を慕ひ、女性なるが故に男性を慕ふのみとするは、人間の価格を禽獣の位地にうつす者なり。 春心の勃発すると同時に恋愛を生ずると言ふは、古来、似非えせ小説家の人生を卑しみて己れの卑陋なる理想の中に縮少したる毒弊なり、恋愛あに単純なる思慕ならんや、想世界と実世界との争戦より想世界の敗将をして立籠らしむる牙城となるは、即ち恋愛なり。

此恋愛あればこそ、理性ある人間はこと/″\く悩死せざるなれ、此恋愛あればこそ、実世界に乗入る慾望を惹起するなれ。 コレリツヂが「ロメオ・ヱンド・ジユリヱツト」を評するうちに、ロメオの恋愛を以て彼自身の意匠を恋愛せし者となし、第一の愛婦なる「ロザリン」は自身の意匠の仮物なりと論ぜるは、蓋し多くの、愛情を獣慾視して実性を見究めざる作家を誡しむるに足る可し。

恋愛は剛愎なるバイロンを泣かせしと言ふ微妙なる音楽の境を越えて広がれり。 恋愛は細微なる美術家とたゝへられたるギヨオテが企る事能はざる純潔なる宝玉なり。 の雄邁にして※(「車+(而/大)」、第3水準1-92-46)せんいうを兼ねたるダンテをして高天卑土に絶叫せしめたるも、其最大誘因は恋愛なり。 彼の痛烈悲酸なる生涯を終りたるスウイフトも恋愛に数度の敗れを取りたればこそ、彼の如くにはなりけれ。 嗚呼あゝ恋愛よ、汝は斯くも権勢ある者ながら、爾の哺養し、爾の切にもとめらるゝ詩家の為に虐遇する所となる事多きは、如何に慨歎すべき事ならずや。

女性を冷罵する事、東西厭世家のつねなり。 釈氏も力を籠めて女人を罵り、沙翁も往々女人に関してあきたらぬ語気を吐けり。 わが露伴子の「一口剣いつこうけん」を草するや、巧に阿蘭おらんを作りて作家の哲学思想を発揮し、更に「風流悟ふうりうご」に於て其解脱を説きたる所、余の尤も服する所なり。 蓋し女性は感情的の動物なり、詩家も亦た男性中の女性と言ふ可き程に感情に富める者なり。 深夜火器をろうして閨中の人をおどろかせしバイロン、必らずしも狂人たりしにあらざる可し、蓋し女性は或意味に於てはなはだ偏狭頑迷なる者なり、しかして詩家も亦た、或点より観れば之に似たる所あるを免れず。 蓋し女性は優美繊細なる者なり、而して詩家も亦た其思想に於ては優美繊細を常とする者なり、豪逸雄壮なる詩句を迸出する時に於ても、詩家は優美を旨とするものなるを以て、おのづから女性に似たるところあるを免れず。 其他生理学上に於てつまびらかに詩家の性情を検察すれば、神経質なるところ、執着なるところ等、類同の個条蓋し数ふるにいとまあらざる可し。 是等の類同なる諸点あるが故に、同性相むところよりして、詩家は遂に綢繆ちうびうを全うする事能はざる者なるか。 夫れ或は然らむ、然れども余は別に説あり、請ふ識者に問はむ。

合歓綢繆を全うせざるもの詩家の常ながら、特に厭世詩家に多きを見て思ふ所あり。 そもそも人間の生涯に思想なる者の発萌はつばうし来るより、善美をねがふて醜悪を忌むは自然の理なり、而して世に熟せず、世の奥に貫かぬ心には、人世の不調子不都合を見初みそむる時に、初理想の甚だ齟齬そごせるを感じ、実世界の風物何となく人をして惨惻さんそくたらしむ。 智識と経験とが相敵視し、妄想と実想とが相争戦する少年の頃に、浮世を怪訝くわいがし、厭嫌えんけんするの情起り易きは至当の理なりと言ふ可し。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

厭世詩家と女性 - 情報

厭世詩家と女性

えんせいしかとじょせい

文字数 6,329文字

著者リスト:
著者北村 透谷

底本 現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集

青空情報


底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「女學雜誌 三〇三號、三〇五號」女學雜誌社
   1892(明治25)年2月6日、20日
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年10月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:厭世詩家と女性

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!