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死者の書

著者:折口信夫

ししゃのしょ - おりくち しのぶ

文字数:62,321 底本発行年:1989
著者リスト:
著者折口 信夫
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の人の眠りは、しずかに覚めて行った。 まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するもののよどんでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。

した した した。 耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。 ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずとまつげと睫とが離れて来る。 膝が、ひじが、おもむろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。 全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまで、ひきつれを起しかけているのだ。

そうして、なお深い闇。 ぽっちりと目をあいて見廻す瞳に、まずあっしかかる黒いいわおの天井を意識した。 次いで、氷になった岩牀いわどこ 両脇に垂れさがる荒石の壁。 したしたと、岩伝うしずくの音。

時がたった――。 眠りの深さが、はじめて頭に浮んで来る。 長い眠りであった。 けれども亦、浅い夢ばかりを見続けて居た気がする。 うつらうつら思っていた考えが、現実につながって、ありありと、目にみついているようである。

ああ耳面刀自みみものとじ

よみがえった語が、彼の人の記憶を、更に弾力あるものに、響き返した。

耳面刀自。 おれはまだお前を……思うている。 おれはきのう、ここに来たのではない。 それも、おとといや、其さきの日に、ここに眠りこけたのでは、決してないのだ。 おれは、もっともっと長く寝て居た。 でも、おれはまだ、お前を思い続けて居たぞ。 耳面刀自。 ここに来る前から……ここに寝ても、……其から覚めた今まで、一続きに、一つ事を考えつめて居るのだ。

古い――祖先以来そうしたように、此世に在る間そう暮して居た――習しからである。 彼の人は、のくっと起き直ろうとした。 だが、筋々がれるほどの痛みを感じた。 骨の節々のくじけるような、うずきを覚えた。 ……そうして尚、じっと、――じっとして居る。 射干玉ぬばたまの闇。 黒玉の大きな石壁に、刻み込まれた白々としたからだの様に、厳かに、だが、すんなりと、手を伸べたままで居た。 耳面刀自の記憶。 ただ其だけの深い凝結した記憶。 其が次第にひろがって、過ぎた日の様々な姿を、短い聯想れんそうひもに貫いて行く。 そうして明るい意思が、彼の人の死枯しにがれたからだに、ふたたび立ち直って来た。

耳面刀自。

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死者の書 - 情報

死者の書

ししゃのしょ

文字数 62,321文字

著者リスト:
著者折口 信夫

底本 昭和文学全集 第4巻

青空情報


底本:「昭和文学全集 第4巻」小学館
   1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第廿四巻」中央公論社
   1967(昭和42)年10月25日発行
初出:「日本評論 第十四巻第一号〜三号」
   1939(昭和14)年1月〜3月
初収単行本:「死者の書」青磁社
   1943(昭和18)年9月
※誤植と組み体裁の誤りが疑われる箇所は、底本の親本を参照して修正しました。
入力:kompass
校正:米田進
2003年12月27日作成
2012年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:死者の書

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