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ある自殺者の手記

原題:SUICIDES

著者:モオパッサン

あるじさつしゃのしゅき

文字数:5,735 底本発行年:1937
著者リスト:
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序章-章なし

新聞をひろげてみて次のような三面記事が出ていない日はほとんどあるまい。

水曜日から木曜日にかけての深更しんこう、某街四十番地所在の家屋に住む者は連続的に二発放たれた銃声に夢を破られた。 銃声の聞えたのは何某氏の部屋だった。 ドアを開けてみると借家人の某氏は、われと我が生命いのちを断った拳銃を握ったまま全身あけに染って打倒れていた。

某氏(五七)はかなり楽な生活くらしをしていた人で、幸福であるために必要であるものはすべてそなわっていたのである。 何が氏をしてかかる不幸な決意をなすに到らしめたのか、原因は全く不明である。

何不足なく幸福に日を送っているこうした人々を駆って、われと我が命を断たしめるのは、いかなる深刻な懊悩おうのう、いかなる精神的苦痛、傍目はためには知れぬ失意、はげしい苦悶がその動機となっての結果であろうか? こうした場合に世間ではよく恋愛関係の悲劇を探したり想像してみたりする。 あるいはまた、その自殺を何か金銭上の失敗の結果ではあるまいかと考えてみる。 結局たしかなところを突止めることは出来ないので、そうした類いの自殺者に対しては、ただ漠然と「不思議な」という言葉が使われるのだ。

そうした「動機もなく我とわが生命を断った」人間の一人が書き遺していった手記がその男のテーブルの上に発見され、たまたま私の手に入った。 最後の夜にその男が弾をこめたピストルを傍らに置いて書き綴った手記である。 私はこれを極めて興味あるものだと思う。 絶望の果てに決行されるこうした行為の裏面に、世間の人がきまって探し求めるような大きな破綻は、一つとして述べられていない。 かえってこの手記は人生のささやかな悲惨事の緩慢な連続、希望というものの消え失せてしまった孤独な生活の最後に襲って来る瓦解をよく語っている。 この手記は鋭い神経をもつ人や感じやすい者のみに解るような悲惨な最後の理由を述べ尽しているのである。 以下その手記である、――

夜も更けた、もう真夜中である。 私はこの手記を書いてしまうと自殺をするのだ。 なぜだ? 私はその理由を書いてみようと思う。 だが、私はこの幾行かの手記を読む人々のために書いているのではない、ともすれば弱くなりがちな自分の勇気をかき立て、今となっては、遅かれ早かれ決行しなければならないこの行為が避け得べくもないことを、我とわが心にとくと云って聞かせるためにつづるのだ。

私は素朴な両親にそだてられた。 彼らは何ごとに依らず物ごとを信じ切っていた。 私もやはり両親のように物ごとを信じて疑わなかった。

永いあいだ私はゆめを見ていたのだ。 ゆめが破れてしまったのは、晩年になってからのことに過ぎない。

私にはこの数年来一つの現象が起きているのだ。 かつて私の目には曙のひかりのように明るい輝きを放っていた人生の出来事が、昨今の私にはすべて色褪せたものに見えるのである。 物ごとの意味が私には酷薄な現象のままのすがたで現れだした。 愛の何たるかを知ったことが、私をして、詩のような愛情をさえ厭うようにしてしまった。

吾々人間は云わばあとからあとへ生れて来る愚にもつかない幻影に魅せられて、永久にそのなぶりものになっているのだ。

ところで私は年をとると、物ごとの怖ろしい惨めさ、努力などの何の役にも立たぬこと、期待のうつろなこと、――そんなことはもう諦念あきらめてしまっていた。 ところが今夜、晩の食事をおわってからのことである。 私にはすべてのものの無のうえに新たな一とすじの光明が突如として現れて来たのだ。

私はこれで元は快活な人間だったのである! 何を見ても嬉しかった。 みちゆく女の姿、街の眺め、自分の棲んでいる場所、――何からなにまで私には嬉しくて堪らなかった。 私はまた自分の身につける洋服のかたちにさえ興味をもっていた。 だが、年がら年じゅう同じものを繰返し繰返し見ていることが、ちょうど毎晩同じ劇場へはいって芝居を観る者に起きるように、私の心をとうとう倦怠と嫌悪の巣にしてしまった。

私は三十年このかた来る日も来る日も同じ時刻に臥床ふしどい出した。 三十年このかた同じ料理屋へいって、同じ時刻に同じ料理を食った。

序章-章なし
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ある自殺者の手記 - 情報

ある自殺者の手記

あるじさつしゃのしゅき

文字数 5,735文字

著者リスト:

底本 モオパツサン短篇集 色ざんげ 他十篇

青空情報


底本:「モオパッサン短篇集 色ざんげ 他十篇」改造文庫、改造社出版
   1937(昭和12)年5月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「凡ゆる→あらゆる 或る→ある 或は→あるいは 何時→いつ 一層→いっそう 恐らく→おそらく 却って→かえって 可なり→かなり 此の→この 然る→しかる (て)了→しま 直ぐ→すぐ 凡て→すべて 丈→だけ 慥かに→たしかに 偶々→たまたま 丁と→ちゃんと 屡々→ちょいちょい 何う→どう 程→ほど 殆ど→ほとんど 復た→また (て)見て→みて 最う→もう 若しも→もしも 矢張り→やはり」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(山本貴之)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2006年4月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:ある自殺者の手記

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