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空家の冒険

原題:The Adventure of the Empty House

著者:コナン・ドイル

あきやのぼうけん

文字数:24,028 底本発行年:1929
著者リスト:
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序章-章なし

一八九四年の春、――ロナルド・アデイア氏が全く不可解な、奇怪極まる事情の下に惨殺されたのは、当時はなはだ有名な事件で、ロンドン市民は一斉に好奇の目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはり、殊に社交界の驚愕は大変なものであった。

警察側の探査に得られた、犯罪の詳細については、世間はもう知悉ちしつしてしまった形であるが、しかしこの事件の発生当時は、その犯罪の大部分は、秘密に附されたのであった。 そしてまた起訴のためにも、その事実の詳細などは、世間に発表する必要などはないほど、圧倒的な大事件であったのである。 さてその後十年、――私はようやくこの驚異すべき大事件の、散乱した記憶を集めて、精細に発表する機会を得たわけである。 この事件では、事件そのものも、たしかおおいに興味あるものであったが、しかし私はその事件そのものよりも、むしろ全く想いもよらなかった結末に、絶大の衝動と驚異を感じさせられたのであった。 この衝動と驚異はたしかに、私の冒険生活の中でも、断然異数とするものであったと思っている。 その後もうかなりの長い時日が経っているのであるが、それにもかかわらずこの事件だけは、今思い出してみても、ぞくぞくと身振いを感じ、今更に盛り返して来る快感、驚異、懐疑と云ったような、かつて私の心を浸しつくした、いろいろの感懐が再燃して来るのを、しみじみと感ずる。 私の折に触れて提供する、特異な人物の思想や行動に対して、多少の興味を持ってくれる読者諸君におことわりしなければならないが、私がこれほどの大事件に対して持っていた知識を、早速読者諸君に披瀝しなかったことを、非難しないようにお願いする。 私はもちろん何事にかかわらず知り得たことは、早速読者諸君の前に提供することを、私の光栄ある本務と信じているが、しかし本件だけは、彼から固い緘口令がかれてあったのであった。 その緘口令の解除となったのは、つい先月の三日のことである。

私はシャーロック・ホームズと親友であったと云うことから、自然犯罪と云うものに対して、特殊な興味を持つようになり、そして彼の失踪後も、世間に現われた種々の問題には、注意深く目を向けるようになったことは、諸君にも想像されることであろう、――私は一再ならず、ただ自分自身の満足のために、こうした問題の解決に、彼一流の解決法を適用してみた。 しかしもちろん決して、彼のような素晴らしい結果は得られなかったが、――

ともあれ、――このロナルド・アデイアの事件だけは、私にとっては全く何物にも比較されない、大悲劇であった。 私は予審調書を読んで、この事件は何者かあるいは、数人の謀殺であると知った時は、シャーロック・ホームズの死は、社会にとってはどんなに大きな損失であるかと云うことを、以前にもましてしみじみと痛感させられたのであった。 私はこの事件にこそ、彼の敏腕につものが、多々あると確信した。 大に警察の探査を補助し得たことはもちろん、更にあるいは、この欧羅巴ヨーロッパ最初の犯罪取扱業者の、精錬された観察と、周到な活動は、警察力以上もの偉力を発揮したかもしれなかった。 私はこの事件に、一日一ぱい心身を傾倒して考えてみたが、しかし結局、何等の首肯される解釈も、発見することは出来なかった。 このもう旧聞である、物語を繰返すことは、あるいは興味索然とするかもしれないがしかし審理の結果得られた事実をもといとして、ここに概括してみようと思うのである。

ロナルド・アデイアは、当時濠洲殖民地の、一知事であった、メイノース伯爵の次男であった。 そしてアデイアの母は、白内障そこひの手術を受けるために帰国して、息子のロナルドと、娘のヒルダと一緒に、レーヌ公園の第四百二十七番に住んでいた。 この青年ロナルド・アデイアは、貴族階級の中に往来し、見受けるところ、別に敵と云うようなものもなく、また取り立てて、不徳義であると云ったようなこともないようであった。 彼はカーステイアスの、エディス・ウードレー嬢と婚約の間柄であったのを、つい数ヶ月前に破棄となったのであったが、しかしこれも両方の和解の上にやったことであって、別に深い意趣をのこしたと思われるようなことも無いことであった。 その他彼の私生活を見れば、それはごく狭い通俗な範囲であった。 この青年は元来、性格もごく静かで、決して激情的な若者ではなかった。 こうしたごく平凡な無難な生活をしている貴族の青年に、全く突然に、奇怪極まる死が襲いかかったと云うのであるから、全く不可思議千万であったのである。 この不可解な兇行は、一八九四年三月三十日の夜の、十時から十一時二十分までの間に行われたのであった。

ロナルド・アデイアは元来、骨牌かるたは好きでよくやっていたが、しかしと云っても、その賭け事のために、身の破滅を招くと云うほどのこととも思われなかった。 彼はボールドウィン、キャバンディッシュ、バカテルと云う骨牌倶楽部かるたくらぶの会員であったが、彼は惨殺される当日は、昼食後バカテル倶楽部で、ホイストの勝負をやっていたと云うことがわかっている。 そして引き続き午後一ぱいは、このバカテル倶楽部で過したのであった。 そして当日の相手としては、マーレー氏ジョン・ハーディ氏、モラン大佐で、賭け事は一貫してホイストで、勝負は実によく伯仲したと云うことも明瞭になっている。 それでも結局はアデイアは五ポンドくらいはけになったろうか、――しかし彼は元来相当の財産を持っていたので、こんな敗けくらいは彼にとっては何でもないことであった。 大体彼はほとんど毎日のように、どこかの倶楽部で骨牌で敗けているのであったが、しかしなかなか上手なので、常に勝ち越しとなるのであった。 それからまた数週間前に、彼はモラン大佐と組になって、コドフレー・ミルナー氏と、バルモーラル卿から、一開帳ワンシッテングに四百二十ポンドも勝ったこともあったのであった。 これだけが審理に現われた、彼の死ぬ前の情況である。

兇行の行われた当夜は、彼はきっかり十時に倶楽部から帰宅した。 母と妹は、親戚の者と一夕の交際つきあいのために、外出して居なかった。 女中の陳述に因れば、女中は彼が、彼の日常の居室になっている、表二階の室に入る気配を聞いたのであった。 そしてしかもその表二階の室は、女中は前もって火を入れ、けぶったので窓を開けておいたのであったと。 それから十一時二十分まで、――すなわちメイノース夫人と娘が帰って来るまでは、全く何の音もしなかったのであった。

序章-章なし
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空家の冒険 - 情報

空家の冒険

あきやのぼうけん

文字数 24,028文字

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底本 世界探偵小説全集 第四卷 シヤーロツク・ホームズの歸還

青空情報


底本:「世界探偵小説全集 第四卷 シヤーロツク・ホームズの歸還」平凡社
   1929(昭和4)年10月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方・貴女→あなた 凡ゆる→あらゆる 或る→ある 或→あるい 如何→いか・いかが 些少か→いささか 何れ→いずれ 何時→いつ 愈よ→いよいよ 所謂→いわゆる 於て→おいて 臆らく→おそらく 却って→かえって 且つ→かつ 曾て・曾つて・嘗つて→かつて 可成り→かなり 彼の→かの かも知れ→かもしれ 屹度→きっと 位→くらい 極く→ごく 併し→しかし 而も→しかも 然らば→しからば 屡々→しばしば 随分→ずいぶん 直・直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 凡て→すべて 折角→せっかく 其の→その 多寡が→たかが 多分→たぶん 一寸→ちょっと て居→てい で居→でい て置→てお て居→てお て見→てみ で見→でみ て貰→てもら 何処→どこ 何方→どちら 猶→なお 仲々→なかなか 成る程→なるほど 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 殆んど→ほとんど 先ず→まず 益々→ますます 亦→また 迄→まで 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 以て→もって 尤も→もっとも 矢張り→やはり 漸→ようやく 妾→わたし」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(句点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本中、混在している「モリアーティ」「モリアーテー」、「バカテル」「バガテル」はそのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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