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世界怪談名作集 09 北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記よりの抜萃

著者:ドイル Arthur Conan Doyle

せかいかいだんめいさくしゅう

文字数:26,336 底本発行年:1987
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序章-章なし

九月十一日、北緯八十一度四十分、東経二度。 依然、われわれは壮大な氷原の真っただ中に停船す。 われわれの北方に拡がっている一氷原に、われわれは氷錨アイス・アンカーをおろしているのであるが、この氷原たるや、実にわが英国の一郡にも相当するほどのものである。 左右一面に氷の面が地平の遙か彼方かなたまで果てしなくひろがっている。 けさ運転士は南方に氷塊の徴候のあることを報じた。 もしこれがわれわれの帰還を妨害するに十分なる厚さを形成するならば、われわれは全く危険の地位にあるというべきで、聞くところによれば、糧食は既にやや不足を来たしているというのである。 時あたかも季節シーズンの終わりで、長い夜が再びあらわれ始めて来た。 けさ、前檣下桁フォア・ヤードの真上にまたまた星を見た。 これは五月の初め以来最初のことである。

船員ちゅうにはいちじるしく不満の色がみなぎっている。 かれらの多くはにしんの漁猟期に間に合うように帰国したいと、しきりに望んでいるのである。 この漁猟期には、スコットランドの海岸地方では、労働賃金が高率を唱えるを例とする。 しかし、かれらはその不満をただ不機嫌な容貌ようぼうと、恐ろしい見幕けんまくとで表わすばかりである。

その日の午後になって、かれら船員は代理人を出して船長に苦情を申し立てようとしているということを二等運転士から聞いたが、船長がそれを受け容れるかどうかははなはだ疑わしい。 彼は非常に獰猛どうもうな性質であり、また彼の権限を犯すようなことに対しては、すこぶる敏感をもっているからである。 夕食のおわったあとで、わたしはこの問題について船長に何か少し言ってみようと思っている。 従来彼は他の船員に対していきどおっているような時でも、わたしにだけはいつも寛大な態度を取っていた。

スピッツバーゲンの北西隅にあるアムステルダム島は、わが右舷のかたに当たって見える――島は火山岩の凹凸おうとつ線をなし、氷河を現出している白い地層線と交叉こうさしているのである。 一直線にしても優に九百マイルはある。 グリーンランド南部のデンマーク移住地より近い処には、おそらくいかなる人類も現在棲息していないことを考えると、実に不思議な心持ちがする。 およそ船長たるものは、その船をかかる境遇にひんせしめたる場合にあっては、みずから大いなる責任を負うべきである。 いかなる捕鯨船もいまだかつてこの時期にあって、かかる緯度の処にとどまったことはなかった。

午後九時、私はとうとうクレーグ船長に打ち明けた。 その結果はとうてい満足にはゆかなかったが、船長は私の言わんとしたことを、非常に静かに、かつ熱心に聴いてくれた。 わたしが語り終わると、彼は私がしばしば目撃した、かの鉄のような決断の色を顔に浮かべて、数分間は狭い船室をあちらこちちと足早に歩きまわった。 最初わたしは彼をほんとうに怒らせたかと思ったが、彼は怒りをおさえて再び腰をおろして、ほとんど追従ついしょうに近い様子でわたしの腕をとった。 その狂暴な黒い眼は著るしく私を驚かしたが、その眼のうちにはまた深いやさしさもこもっていた。

「おい、ドクトル」と、彼は言い出した。 「わしは実際、いつも君を連れて来るのが気の毒でならない。 ダンディ埠頭クエイにはもうおそらく帰れぬだろうなあ。 今度という今度は、いよいよいちばちかだ。 われわれの北の方には鯨がいたのだ。 わしは檣頭マストヘッドからしおいている鯨のやつらをちゃんと見たのだから、君がいかにかぶりを横にふっても、そりゃあ駄目だ」

わたしは別にそれを疑うような様子は少しも見せなかったつもりであったが、彼は突然に怒りが勃発したかのように、こう叫んだ。

「わしも男だ。 二十二秒間に二十二頭の鯨! しかもひげの十フィート以上もある大きい奴をな!(捕鯨者仲間では鯨を体の長さで計らず、その鬚の長さで計るのである)

さて、ドクトル。 君はわしとわしの運命とのあいだに多寡たかが氷ぐらいの邪魔物があるからといって、わしがこの国を去られると思うかね。

序章-章なし
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世界怪談名作集 - 情報

世界怪談名作集 09 北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記よりの抜萃

せかいかいだんめいさくしゅう 09 ほっきょくせいごうのせんちょう いがくせいジョン・マリスターレーのきいなるにっきよりのばっすい

文字数 26,336文字

著者リスト:

底本 世界怪談名作集 下

青空情報


底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
   1987(昭和62)年9月4日初版発行
   2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:世界怪談名作集

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