序章-章なし
『文学』の編輯者から『徒然草』についての「鑑賞と批評」に関して何か述べよという試問を受けた。
自分の国文学の素養はようやく中学卒業程度である。
何か述べるとすれば中学校でこの本を教わった時の想い出話か、それを今日読み返してみた上での気紛れの偶感か、それ以上のことは出来るはずがない。
しかし、それでもいいからと云われるので、ではともかくもなるべくよく読み返してみてからと思っているうちに肝心な職務上の仕事が忙しくて思うように復習も出来ず、結局瑣末な空談をもって余白を汚すことになったのは申訳のない次第である。
読者の寛容を祈る外はない。
中学校の五年で『徒然草』を教わった後に高等学校でもう一度同じものを繰返して教わったので比較的によく頭に沁み込んでいると見える。
その後ほとんどこの本を読み返したような記憶がなく、昔読んだ本もとうの昔に郷里の家のどこかに仕舞い込まれたきり見たことがない。
それだのに今度新たに岩波文庫で読み返してみると、実に新鮮な記憶が残っていた。
昔の先生の講義の口振り顔付きまでも思い出されるので驚いてしまった。
「しろうるり」などという声が耳の中で響き、すまないことだが先生の顔がそのしろうるりに似て来るような気がしたりするのである。
もう一つ気の付いて少し驚いた事は、『徒然草』の中に現れていると思う人生観や道徳観といったようなものの影響が自分の現在のそういうものの中にひどく浸潤しているらしいことである。
尤も、この本の中に現われているそれらの思想は畢竟あらゆる日本的思想の伝統を要約したようなものであるから、おそらくこの本を読まされなくてもやはり他の本や他の色々の途から自然に注入されたかもそれは分からないと思われる。
しかしその時代に教わった『論語』や『孟子』や、マコーレーの伝記物や、勝手に読んだ色々な外国文学などを想い出して点検してみても、なるほどそれらから受けた影響もかなり多く発見されはするが、どうもこれ程ぴったりはまるものは少ないような気がする。
つまり、中学時代の染みやすい頭にこの『徒然草』が濃厚に浸み込んでしまったには相違ないであろうが、しかし、それにはやはりそれが浸み込みやすいような風に自分の若い時の頭の下地が出来ていたのかもしれないと思われる。
そういう下地はしかしおそらく同時代の日本の少年の、皆まででなくとも大多数の中に、多少でも通有なものではなかったかと疑う。
もしもそうであったとしたら、この『徒然草』が中学校の教科書として広く行われていたという事が、一時代の国民思想といったようなものに存外かなりの影響を及ぼしたのかもしれないと思われる。
『徒然草』から受けた影響の一つと思わるるものに自分の俳諧に対する興味と理解の起原があるように思う。
この本のところどころに現われる自然界と人間の交渉、例えば第十九段に四季の景物を列記したのでも、それが『枕草子』とどれだけ似ているとか、ちがうとかいう事はさておいて、その中には多分の俳諧がある。
型式的概念的に堕した歌人の和歌などとは自ずからちがった自由な自然観が流露している。
「青葉になりゆくまで、よろづにたゞ心をのみぞなやます」というような文句でも、国語の先生の講義ではとても述べられない俳諧がある。
同じことを云った人が以前に何人あろうがそんなことは問題にならない。
この文句が『徒然草』の中のこの場所にあって始めて生きて、そうして俳諧となるのである。
ここで自分のいわゆる俳諧は心の自由、眼の自由によってのみ得られるものなのである。
兼好はこの書の中で色々の場所で心の自由を説いている。
例えば第三十九段で法然上人が人から念仏の時に睡気が出たときどうすればいいかと聞かれたとき「目のさめたらんほど念仏し給へ」と答えたとある。
またいもがしらばかり食った盛親僧都の話でも自由風流の境に達した達人の逸話である。
自由に達して始めて物の本末を認識し、第一義と第二義を判別し、末節を放棄して大義に就くを得るということを説いたのには第百十二段、第二百十一段などのようなものがある。
反対にまた、心の自由を得ない人間の憐むべく笑うべくまた悲しむべき現象を記録したものが非常に沢山に収集されていて、それがまたこの随筆集中の最も面白い部分をなしているのである。
似非風流や半可通やスノビズムの滑稽、あまりに興多からんことを求めて却って興をさます悲喜劇、そういったような題材のものの多くでは、これをそのままに現代に移しても全くそのままに適合するような実例を発見するであろう。
十四世紀の日本人に比べて二十世紀の日本人はほとんど一歩も進んでいないという感を深くさせるのはこれらの諸篇である。
新しがることの好きな人は「一九三三年である。
今頃『徒然草』でもあるまい」と云うが、そういう諸君の現在していることの予報がその『徒然草』にちゃんと明記してあるのである。
鼎をかぶって失敗した仁和寺の法師の物語は傑作であるが、現今でも頭に合わぬイズムの鼎をかぶって踊って、見物人をあっと云わせたのはいいが、あとで困ったことになり、耳の鼻も
ぎ取られて「からき命まうけて久しく病みゐる」人はいくらでもある。
心の自由を得てはじめて自己を認識することが出来る。
そこから足ることを知る節制謙譲が生まれるであろう、と教える東洋風の教えがこの集のところどころに繰返して強調されている。
例えば第百三十四段から第百三十七段までを見ただけでも大体のものの考え方がわかる。
第百三十七段の前半を見れば、心の自由から風流俳諧の生まれる所以を悟ることが出来よう。
このような思想はまた一面において必然的に仏教の無常観と結合している。
これは著者が晩年に僧侶になったためばかりでなく大体には古くからその時代に伝わったものをそのままに継承したに過ぎないであろう。