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故郷

著者:魯迅

こきょう - ろじん

文字数:8,041 底本発行年:1932
著者リスト:
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅
底本: 魯迅全集
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序章-章なし

わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。 時はもう冬の最中さなかで故郷に近づくに従って天気は小闇おぐらくなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。 苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村あれむらがあちこちに横たわっていささかの活気もない。 わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。

おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。

わたしの想い出す故郷はまるきり、こんなものではない。 わたしの故郷はもっといところが多いのだ。 しかしその佳いところを記すには姿もなく言葉もないので、どうやらまずこんなものだとしておこう。 そうしてわたし自身解釈して、故郷はもともとこんなものだと言っておく。 ――進歩はしないがわたしの感ずるほどうら悲しいものでもなかろう。 これはただわたし自身の心境の変化だ。 今度の帰省はもともと何のたのしみもないからだ。

わたしどもが永い間身内と一緒に棲んでいた老屋がすでに公売され、家を明け渡す期限が本年一ぱいになっていたから、ぜひとも正月元日前にかなければならない。 それが今度の帰省の全部の目的であった。 住み慣れた老屋と永別して、その上また住み慣れた故郷に遠く離れて、今食い繋ぎをしているよそ国に家移りするのである。

わたしは二日目の朝早く我が家の門口にいた。 屋根瓦のうえに茎ばかりの枯草が風に向ってふるえているのは、ちょうどこの老屋が主をえなければならない原因を説明するようである。 同じ屋敷うちに住む本家の家族は大概もう移転したあとで、あたりはひっそりしていた。 わたしが部屋の外側まで来た時、母は迎えに出て来た。 八歳になる甥の宏兒こうじ飛出とびだして来た。

母は非常に喜んだ。 何とも言われぬ淋しさを押包みながら、お茶を入れて、話をよそ事に紛らしていた。 宏兒は今度初めて逢うので遠くの方へ突立って真正面からわたしを見ていた。

わたしどもはとうとう家移りのことを話した。

「あちらの家も借りることにめて、家具もあらかた調えましたが、まだ少し足らないものもありますから、ここにある嵩張物かさばりものを売払って向うで買うことにしましょう」

「それがいいよ。 わたしもそう思ってね。 荷拵にごしらえをした時、嵩張物は持運びに不便だから半分ばかり売ってみたがなかなかおあしにならないよ」

こんな話をしたあとで母は語を継いだ。

「お前さんは久しぶりで来たんだから、本家や親類に暇乞いを済まして、それから出て行くことにしましょう」

「ええそうしましょう」

「あの閏土じゅんどがね、家へ来るたんびにお前のことをきいて、ぜひ一度逢いたいと言っているんだよ」と母はにこにこして

「今度到著とうちゃくの日取を知らせてやったから、たぶん来るかもしれないよ」

「おお、閏土! ずいぶん昔のことですね」

この時わたしの頭の中に一つの神さびた画面が閃き出した。 深藍色はなだいろの大空にかかる月はまんまろの黄金色こがねいろであった。 下は海辺の砂地に作られた西瓜すいか畑で、果てしもなき碧緑の中に十一二歳の少年がぽつりと一人立っている。 えりには銀の輪を掛け、手には鋼鉄の叉棒さすぼうを握って一ぴき土竜もぐらに向って力任せに突き刺すと、土竜は身をひねって彼のまたぐらをくぐって逃げ出す。

この少年が閏土であった。

序章-章なし
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故郷 - 情報

故郷

こきょう

文字数 8,041文字

著者リスト:
著者魯迅
翻訳者井上 紅梅

底本 魯迅全集

青空情報


底本:「魯迅全集」改造社
   1932年(昭和7年)11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 貴郎→あなた 或→ある 所謂→いわゆる 薄ら→うすら 曽て→かつて 兼ね→かね かも知れない→かもしれない 屹度→きっと 切り→きり 位→ぐらい 呉れ→くれ 極く→ごく 此→この 此処→ここ 之れ→これ 宛ら→さながら 然し→しかし 随分→ずいぶん 是非→ぜひ 其→その 沢山→たくさん 慥か→たしか 只→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて て置く→ておく て仕舞う→てしまう 尚お→なお 中々→なかなか 許り→ばかり 甚だ→はなはだ 外でもない→ほかでもない 先ず→まず 益々→ますます 又・亦→また 未だ→まだ 丸切り→まるきり 丸で→まるで 矢張り→やはり」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:故郷

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