耳無芳一の話
原題:THE STORY OF MIMI-NASHI-HOICHI
著者:小泉八雲 Lafcadio Hearn
みみなしほういちのはなし - こいずみ やくも
文字数:7,864 底本発行年:1937
七百年以上も昔の事、下ノ関海峡の壇ノ浦で、平家すなわち平族と、源氏すなわち源族との間の、永い争いの最後の戦闘が戦われた。 この壇ノ浦で平家は、その一族の婦人子供ならびにその幼帝――今日安徳天皇として記憶されている――と共に、まったく滅亡した。 そうしてその海と浜辺とは七百年間その怨霊に祟られていた……他の個処で私はそこに居る平家蟹という不思議な蟹の事を読者諸君に語った事があるが、それはその背中が人間の顔になっており、平家の武者の魂であると云われているのである。 しかしその海岸一帯には、たくさん不思議な事が見聞きされる。 闇夜には幾千となき幽霊火が、水うち際にふわふわさすらうか、もしくは波の上にちらちら飛ぶ――すなわち漁夫の呼んで鬼火すなわち魔の火と称する青白い光りである。 そして風の立つ時には大きな叫び声が、戦の叫喚のように、海から聞えて来る。
平家の人達は以前は今よりも遥かに
幾百年か以前の事、この赤間ヶ関に芳一という盲人が住んでいたが、この男は吟誦して、琵琶を奏するに妙を得ているので世に聞えていた。 子供の時から吟誦し、かつ弾奏する訓練を受けていたのであるが、まだ少年の頃から、師匠達を凌駕していた。 本職の琵琶法師としてこの男は重もに、平家及び源氏の物語を吟誦するので有名になった、そして壇ノ浦の戦の歌を謡うと鬼神すらも涙をとどめ得なかったという事である。
芳一には出世の
ある夏の夜の事、住職は死んだ檀家の家で、仏教の法会を営むように呼ばれたので、芳一だけを寺に残して納所を連れて出て行った。
それは暑い晩であったので、盲人芳一は涼もうと思って、寝間の前の縁側に出ていた。
この縁側は阿彌陀寺の裏手の小さな庭を見下しているのであった。
芳一は住職の帰来を待ち、琵琶を練習しながら自分の孤独を慰めていた。
夜半も過ぎたが、住職は帰って来なかった。
しかし空気はまだなかなか暑くて、戸の内ではくつろぐわけにはいかない、それで芳一は外に居た。
やがて、裏門から近よって来る跫音が聞えた。
誰れかが庭を横断して、縁側の処へ進みより、芳一のすぐ前に立ち止った――が、それは住職ではなかった。
底力のある声が盲人の名を呼んだ――出し抜けに、無作法に、ちょうど、侍が
『芳一!』
芳一はあまりに
『芳一!』
『はい!』と威嚇する声に縮み上って盲人は返事をした――『私は盲目で御座います!――どなたがお呼びになるのか解りません!』
見知らぬ人は言葉をやわらげて言い出した、『何も恐わがる事はない、拙者はこの寺の近処に居るもので、お前の
当時、侍の命令と云えば容易に、反くわけにはいかなかった。
で、芳一は草履をはき琵琶をもち、知らぬ人と一緒に出て行ったが、その人は巧者に芳一を案内して行ったけれども、芳一はよほど急ぎ足で歩かなければならなかった。
また手引きをしたその手は鉄のようであった。
武者の足どりのカタカタいう音はやがて、その人がすっかり甲冑を著けている事を示した――定めし何か
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耳無芳一の話 - 情報
青空情報
底本:「小泉八雲全集第八卷家庭版」第一書房
1937(昭和12)年1月15日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「敢て→あえて 遊ぶ→あそぶ 或る→ある 或→あるい 如何にも→いかにも 何れ→いずれ 一切→いっさい 一層→いっそう 未だ嘗て→いまだかつて 徐ろに→おもむろに 折折→おりおり 且つ→かつ 斯様→かよう 位→くらい 悉く→ことごとく 此処→ここ 此→この 然るに→しかるに 暫く→しばらく 重重→じゅうじゅう 悉皆→すっかり 則ち→すわなち 是非→ぜひ 其処→そこ 其→その 沢山→たくさん 只→ただ 忽ち→たちまち 度度→たびたび 多分→たぶん 為め→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて て戴く→ていただく て居る→ている・ておる て置く→ておく て見る→てみる 何処→どこ 処で→ところで 何誰→どなた 兎に角→とにかく 何の→どの 中中→なかなか 并びに→ならびに に連れて→につれて には行かない→にはいかない 筈→はず 甚だ→はなはだ 密かに→ひそかに 酷く→ひどく 程→ほど 程なく→ほどなく 正しく→まさしく 益々→ますます 又・亦→また 全く→まったく 寧ろ→むしろ 若し→もし 若しくは→もしくは 余程→よほど」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(訓練者一同)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
青空文庫:耳無芳一の話