私は海をだきしめてゐたい
著者:坂口安吾
わたしはうみをだきしめていたい - さかぐち あんご
文字数:6,977 底本発行年:1947
一
私はいつも神様の国へ行かうとしながら地獄の門を潜つてしまふ人間だ。
ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行かうといふことを忘れたことのない甘つたるい人間だつた。
私は結局地獄といふものに戦慄したためしはなく、馬鹿のやうにたわいもなく落付いてゐられるくせに、神様の国を忘れることが出来ないといふ人間だ。
私は必ず、今に何かにひどい目にヤッツケられて、叩きのめされて、甘つたるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして
私はずるいのだ。 悪魔の裏側に神様を忘れず、神様の陰で悪魔と住んでゐるのだから。 今に、悪魔にも神様にも復讐されると信じてゐた。 けれども、私だつて、馬鹿は馬鹿なりに、ここまで何十年か生きてきたのだから、ただは負けない。 そのときこそ刀折れ、矢尽きるまで、悪魔と神様を相手に組打ちもするし、蹴とばしもするし、めつたやたらに乱戦乱闘してやらうと悲愴な覚悟をかためて、生きつづけてきたのだ。 ずゐぶん甘つたれてゐるけれども、ともかく、いつか、化の皮がはげて、裸にされ、毛をむしられて、突き落される時を忘れたことだけはなかつたのだ。
利巧な人は、それもお前のずるさのせいだと言ふだらう。 私は悪人です、と言ふのは、私は善人ですと、言ふことよりもずるい。 私もさう思ふ。 でも、何とでも言ふがいいや。 私は、私自身の考へることも一向に信用してはゐないのだから。
二
私は然し、ちかごろ妙に安心するやうになつてきた。 うつかりすると、私は悪魔にも神様にも蹴とばされず、裸にされず、毛をむしられず、無事安穏にすむのぢやないかと変に思ひつく時があるやうになつた。
さういふ安心を私に与へるのは、一人の女であつた。 この女はうぬぼれの強い女で頭が悪くて、貞操の観念がないのである。 私はこの女の外のどこも好きではない。 ただ肉体が好きなだけだ。
全然貞操の観念が欠けてゐた。
この女は昔は女郎であつた。 それから酒場のマダムとなつて、やがて私と生活するやうになつたが、私自身も貞操の念は稀薄なので、始めから、一定の期間だけの遊びのつもりであつた。 この女は娼婦の生活のために、不感症であつた。 肉体の感動といふものが、ないのである。
肉体の感動を知らない女が、肉体的に遊ばずにゐられぬといふのが、私には分らなかつた。 精神的に遊ばずにゐられぬといふなら、話は大いに分る。 ところが、この女ときては、てんで精神的な恋愛などは考へてをらぬので、この女の浮気といふのは、不感症の肉体をオモチャにするだけのことなのである。
「どうして君はカラダをオモチャにするのだらうね」
「女郎だつたせいよ」
女はさすがに暗然としてさう言つた。 しばらくして私の唇をもとめるので、女の頬にふれると、泣いてゐるのだ。 私は女の涙などはうるさいばかりで一向に感動しないたちであるから
一
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私は海をだきしめてゐたい - 情報
青空情報
底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「婦人画報 第四二巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
初出:「婦人画報 第四二巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
2019年12月25日修正
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