酒のあとさき
著者:坂口安吾
さけのあとさき - さかぐち あんご
文字数:3,865 底本発行年:1947
私は日本酒の味はきらひで、ビールの味もきらひだ。 けれども飲むのは酔ひたいからで、酔つ払つて不味が無感覚になるまでは、息を殺して、薬のやうに飲み下してゐるのである。 私は身体は大きいけれども胃が弱いので、不味を抑へて飲む日本酒や、ビールは必ず吐いて苦しむが、苦しみながら尚のむ。 気持よく飲めるのは高級のコニャックとウヰスキーだけだが、今はもう手にはいらず、飲むよしもない。 ジンやウォトカやアブサンでも日本酒よりはいゝ。 少量で酔へるものは、味覚にかゝはらず良いのである。
酔ふために飲む酒だから、酔後の行状が言語道断は申すまでもなく、さめれば鬱々として悔恨の
女はそのとき十七であつたから、十一年上の私は二十八であつたわけだ。 この十七の娘が大変な酒飲みなのである、グラスのウヰスキーを必ずぐいと一息で飲むのである。 何杯ぐらゐ飲んだか忘れたが、とにかく無茶な娘で、モナミだつたかどこかでテーブルの上のガラスの花瓶をこはして六円だか請求されると、別のテーブルの花瓶をとりあげてエイッと叩き割つて十二円払つて出てくる娘であつた。 しよつちう男と泊つたり、旅行したりしてゐたが処女なので、娘は私に処女ではないと云つて頑強に言ひ張つたけれども、処女であつたと思ふ。 日本橋にウヰンザアといふ芸術家相手の洋酒屋ができて、そこの女給であつたが、店内装飾は青山二郎で、牧野信一、小林秀雄、中島健蔵、河上徹太郎、かう顔ぶれを思ひだすと、これは当時の私の文学グループで、春陽堂から「文科」といふ同人雑誌をだしてゐた、結局その同人だけになつてしまふが、そのほか中原中也と知つたのがこの店であつた。 直木三十五が来てゐた。 あの当時の文士は一城をまもつて虎視眈々、知らない同業者には顔もふりむけないから、誰が来てゐたかあとは知らない。
中原中也は、十七の娘が好きであつたが、娘の方は私が好きであつたから中也はかねて恨みを結んでゐて、ある晩のこと、彼は隣席の私に向つて、やいヘゲモニー、と叫んで立上つて、突然殴りかゝつたけれども、四尺七寸ぐらゐの小男で私が大男だから怖れて近づかず、一
私は十七の娘のことを考へると、失はれた年齢を、非常になつかしむ思ひになる。 もう、再びあのやうな嘘のやうな間の抜けた話はめぐりあふことが有り得ない、年齢的に、否、二十八の私は驚くほど子供でもあつた。
私はそのころ別の女の人に失恋みたいなことをして(これが又はつきり失恋でもないのだから始末がわるい、非常にいりくんだ精神上の絡みがあつた)さういふわけで、十七の娘のことなど行きづりの気持しかなかつたのに、娘の方では八百屋お七のやうに思ひこんで私を愛してこの娘は変な手練手管などまだ眼中にないのだから、酒飲みの私を愛する故に彼女も亦威勢よく酒をのみ(まつたく常にグッと、一息で誰でも呆気にとられるのだ)そして私達は飲み仲間の歓呼の声に送られて堂々と出発し、銀座を飲み歩いて巡査に叱られたり、そして、あつちのホテルだの、こつちの宿屋で酔ひつぶれた。 けれども娘は頑として肉体の交渉を拒絶し、娘は私に、私は処女ではないのよと言つて抱きついて色々悩しいことをするのだけれども、この娘はたしかに処女とは如何なるものであるか、男女関係の最後の、交渉がどういふものであるか、全然知らなかつたのだと思ふ。 だから私とこの娘は中原中也だの隠岐和一だの西田義郎だの飲み仲間の声援に送られて頻りに諸方のホテルで夜を明したけれども、まつたく肉体の交渉はない。 私は思ふに、終戦後現れたフラッパーの中には案外この種の何も知らない女が相当数ゐるのではないかと考へてゐる。 そしてこの種の何も知らない娘に限つて外形的に大無軌道をやらかすのではないかと考へる。
私が京都に「吹雪物語」を書いてゐたとき、下宿屋の娘がこの年頃で京都
私の友達の十七の娘はその後結婚して良い母になつてゐる筈であるが、この娘はフランス文学者の娘で日本の古典文学に本格的な教養を持つてをり、私の原稿を読んで仮名や誤字を訂正してくれたが私が又今もつて漢字だの仮名遣ひなど
私は胃が弱いので、酒やビールだと必ず吐いて苦しむので、これはヂッと飲んでゐると尚いけない。 少しづつ飲んで梯子酒をすると割合によい。 一番よいのは汽車の食堂で、これは常に身体がゆれてゐるから、よく消化して吐くことが殆どないのである。 だからダンスをやらうかと思つたが、昔のダンスホールは酒を飲ませないものだから、非常に厭味なところで、ダンスもつい覚える気持にならなかつた。 それでも、どうも酒を飲んで動かないのが苦痛の種でありすぎたから、酒場の女給から教へてもらつて(四五日)ボックスといふ奴、これが又バカ/\しくて、いつそひとつ石井漠にでも弟子入してやらうかと思つたぐらゐである。 あのころはウヰスキーでもジョニーウォーカアの赤レベルだともう薬のやうに厭な味が鼻につき、私はコニャックかオールドパアでないと気持よく酔ふことができなかつた。 今はメチルでも飲みかねないていたらくで、味覚の方が思想よりも下落してしまつた。