雲
著者:山村暮鳥
くも - やまむら ぼちょう
文字数:7,802 底本発行年:1966
序
人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。 十年一昔だといふ。 すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。 まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたのか。 一生とは、こんな短いものだらうか。 これでよいのか。 だが、それだからいのちは貴いのであらう。
そこに永遠を思慕するものの寂しさがある。
ふりかへつてみると、自分もたくさんの詩をかいてきた。 よくかうして書きつづけてきたものだ。
その詩が、よし、どんなものであらうと、この一すぢにつながる境涯をおもへば、まことに、まことに、それはいたづらごとではない。
むかしより、ふでをもてあそぶ人多くは、花に耽りて實をそこなひ、實をこのみて風流をわする。
これは芭蕉が感想の一つであるが、ほんとうにそのとほりだ。
また言ふ。 ――花を愛すべし。 實なほ喰ひつべし。
なんといふ童心めいた慾張りの、だがまた、これほど深い實在自然の聲があらうか。
自分にも此の頃になつて、やうやく、さうしたことが沁々と思ひあはされるやうになつた。 齡の效かもしれない。
藝術のない生活はたへられない。 生活のない藝術もたへられない。 藝術か生活か。 徹底は、そのどつちかを撰ばせずにはおかない。 而も自分にとつては二つながら、どちらも棄てることができない。
これまでの自分には、そこに大きな惱みがあつた。
それならなんぢのいまはと問はれたら、どうしよう、かの道元の谿聲山色はあまりにも幽遠である。
かうしてそれを喰べるにあたつて、大地の中からころげでた馬鈴薯をただ合掌禮拜するだけの自分である。
詩が書けなくなればなるほど、いよいよ、詩人は詩人になる。
だんだんと詩が下手になるので、自分はうれしくてたまらない。
詩をつくるより田を作れといふ。 よい箴言である。 けれど、それだけのことである。
善い詩人は詩をかざらず。
まことの農夫は田に溺れず。
これは田と詩ではない。 詩と田ではない。 田の詩ではない。 詩の田ではない。