支那人の食人肉風習
著者:桑原隲藏
しなじんのしょくじんにくふうしゅう - くわばら じつぞう
文字数:4,086 底本発行年:1927
この論文を讀む人は、更に大正十三年七月發行の『東洋學報』に掲載した、拙稿「支那人間に於ける食人肉の風習」(本全集第二卷所收)を參考されたい。
この四月二十七八日の諸新聞に、
目下露國の首都ペトログラードの食糧窮乏を極めたる折柄、官憲にて支那人が人肉を市場に販賣しつつありし事實を發見し、該支那人を取押へて、遂に之を銃殺せり。
といふ驚くべき外國電報が掲載されてある。 私はこの電報によつて、端なくも、古來支那人間に行はるる、人肉食用の風習を憶ひ起さざるを得ないのである。
一體支那人の間に、上古から食人肉の風習の存したことは、經史に歴然たる確證があつて、毫も疑惑の餘地がない。
古い所では殷の紂王が、自分の不行跡を諫めた翼侯を炙とし、鬼侯を
にし、梅伯を醢にして居る。
炙は人肉を炙ること、
は人肉を乾すこと、醢とは人肉を醤漬にすることで、何れも人肉を食することを前提とした調理法に過ぎぬ。
降つて春秋時代になると、有名な齊の桓公、晉の文公、何れも人肉を食して居る。
齊の桓公は、その嬖臣易牙の調理して進めた、彼の子供の肉を食膳に上せて舌鼓を打ち、晉の文公は、その天下放浪中、食に窮した折柄、從臣介之推の股肉を啖つて饑を凌いだ。
漢楚交爭時代に、楚の項羽は漢の高祖の父太公を擒にし、之を俎上に置いて高祖を威嚇した。
高祖は之に對して、幸分二我一杯羹一と對へてゐる。
これらの應對は、食人肉の風習の存在を承認せずしては、十分に理會出來ぬことと思ふ。
支那人の人肉を食するのは、決して稀有偶然の出來事でない。 歴代の正史の隨處に、その證據を發見することが出來る。 中に就いて尤も著るしい二三の實例を示さう。 第一の例としては隋末の劇賊朱粲を擧げねばならぬ。 彼は人肉を以て食の最美なるものと稱し、部下に命じ、至る所婦人小兒を略して、軍の糧食に供せしめて居る。 唐末の賊首黄巣の軍も亦同樣である。 黄巣の軍は長安沒落後、糧食に乏しく、毎日沿道の百姓數千人を捕へ、生ながら之を臼に納れ、杵碎して食に充てた。 この時討手に向つた官軍は、賊軍を討伐するよりも、彼等の糧乏しきに乘じ、無辜の良民を捕へ、之を賊軍に賣り付けて金儲をしたといふ。 隨分呆れた話であるが、支那兵の所行としては、あり得ることかも知れぬ。 朱粲や黄巣の事蹟は、何れも『舊唐書』に見えて居る。 また『五代史記』に據ると、五代の初に、揚州地方は連年の騷亂の爲、倉廩空虚となつた結果、人肉の需要が盛に起り、貧民の間では、夫はその婦を、父はその子を肉屋に賣り渡し、肉屋の主人は彼等の目前で之を料理いたし、羊豚と同樣に、店前で人肉を賣り出したといふ。
更に南宋の初期には、金人の入寇により、山東・京西・淮南の諸路一帶にかけて、穀價暴騰せし爲、この方面の人々は、百姓も兵卒も盜賊も、皆人肉を食して口腹を充たした。
當時人間を兩脚羊と稱した。
人肉を羊肉と同一視した譯である。
南宋の莊綽の『
肋編』に、忠實に當時の慘状を述記して居る。
之にも勝る一層の慘事が、元末擾亂の際に實現した。
その光景は、當時の陶宗儀の『輟耕録』に委細に描出されて居る。
實例の紹介は右に止めて、支那人の人肉を食用する動機を考察すると、大約之れを左の五種に區別することが出來ると思ふ。
(第一) 饑餓より來る要求で、勿論之が一番普通である。 支那では凶年の場合に、所謂人相食と申して、尤も露骨に弱肉強食の有樣を現出する。 かかる場合にも、民間ではその子を易へて、甲は乙の子を、乙は甲の子を食して、一時の露命を繋ぎ、又は公然人肉を市場で販賣するといふ事實が頗る多い。 支那では凶年に人肉を食料に充てるのが、殆ど慣例となつて居る。
(第二) 凶年でなくとも、戰爭の際重圍の裡に陷つて、糧食盡くる時は、支那人は人肉を以て糧食に代用することが、殆ど一種の慣例と申して差支ない。
唐の張巡・許遠らが、賊軍の爲に
陽に圍まれて糧道絶ゆるや、張巡は眞先にその愛妾を殺し、許遠はその從僕を殺して士卒の食に充て、續きて城中の婦人を、最後に戰鬪に堪へ得ざる老弱の男子を糧食に供したことは、有名なる話であるが、かかる事實は支那では寧ろ普通の出來事かと思ふ。
蒙古の太宗が金の都の
京を圍んだ時、城中食盡きて人々相呑噬して、一日の生を偸んだ慘憺たる光景は、當時の籠城者の一人なる劉祁の記録によつて、七百年後の今日でも、その髣髴を想見することが出來る。
明末の流賊李自成の爲に、長い攻圍を受けて、糧食に盡きた開封の城民は、父は子を食ひ、夫は妻を食ひ、兄は弟を食ふといふ、戰慄すべき餓鬼道に陷つた有樣は、當時の籠城者の一人なる李光※[#「殿/土」、読みは「でん」、456-12]の日誌に備載されて居る。