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白痴

著者:坂口安吾

はくち - さかぐち あんご

文字数:22,903 底本発行年:1947
著者リスト:
著者坂口 安吾
親本: 白痴
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序章-章なし

その家には人間と豚と犬と鶏と家鴨あひるが住んでいたが、まったく、住む建物も各々の食物もほとんど変っていやしない。 物置のようなひん曲った建物があって、階下には主人夫婦、天井裏には母と娘が間借りしていて、この娘は相手の分らぬ子供をはらんでいる。

伊沢の借りている一室は母屋から分離した小屋で、ここは昔この家の肺病の息子がねていたそうだが、肺病の豚にも贅沢すぎる小屋ではない。 それでも押入と便所と戸棚がついていた。

主人夫婦は仕立屋で町内のお針の先生などもやり(それ故肺病の息子を別の小屋へ入れたのだ)町会の役員などもやっている。 間借りの娘は元来町会の事務員だったが、町会事務所に寝泊りしていて町会長と仕立屋を除いた他の役員の全部の者(十数人)と公平に関係を結んだそうで、そのうちの誰かの種を宿したわけだ。 そこで町会の役員共が醵金きょきんしてこの屋根裏で子供の始末をつけさせようというのだが、世間は無駄がないもので、役員の一人に豆腐屋がいて、この男だけ娘が姙娠してこの屋根裏にひそんだ後も通ってきて、結局娘はこの男の妾のようにきまってしまった。 他の役員共はこれが分るとさっそく醵金をやめてしまい、この分れ目の一ヶ月分の生活費は豆腐屋が負担すべきだと主張して、支払いに応じない八百屋と時計屋と地主と何屋だか七八人あり(一人当り金五円)娘は今に至るまで地団駄じだんだふんでいる。

この娘は大きな口と大きな二つの眼の玉をつけていて、そのくせひどくせこけていた。 家鴨を嫌って、鶏にだけ食物の残りをやろうとするのだが、家鴨が横からまきあげるので、毎日腹を立てて家鴨を追っかけている。 大きな腹と尻を前後に突きだして奇妙な直立の姿勢で走る恰好かっこうが家鴨に似ているのであった。

この路地の出口に煙草屋があって、五十五という婆さんが白粉おしろいつけて住んでおり、七人目とか八人目とかの情夫を追いだして、その代りを中年の坊主にしようか矢張り中年の何屋だかにしようかと煩悶中の由であり、若い男が裏口から煙草を買いに行くと幾つか売ってくれる由で(但し闇値)先生(伊沢のこと)も裏口から行ってごらんなさいと仕立屋が言うのだが、あいにく伊沢は勤め先で特配があるので婆さんの世話にならずにすんでいた。

ところがその筋向いの米の配給所の裏手に小金を握った未亡人が住んでいて、兄(職工)と妹と二人の子供があるのだが、この真実の兄妹が夫婦の関係を結んでいる。 けれども未亡人は結局その方が安上りだと黙認しているうちに、兄の方に女ができた。 そこで妹の方をかたづける必要があって親戚に当る五十とか六十とかの老人のところへ嫁入りということになり、妹が猫イラズを飲んだ。 飲んでおいて仕立屋(伊沢の下宿)へお稽古にきて苦しみはじめ、結局死んでしまったが、そのとき町内の医者が心臓麻痺の診断書をくれて話はそのまま消えてしまった。 え? どの医者がそんな便利な診断書をくれるんですか、と伊沢が仰天して訊ねると、仕立屋の方が呆気あっけにとられた面持で、なんですか、よそじゃ、そうじゃないんですか、と訊いた。

このへんは安アパートが林立し、それらの部屋の何分の一かは妾と淫売が住んでいる。 それらの女達には子供がなく、又、各々の部屋を綺麗にするという共通の性質をもっているので、そのために管理人に喜ばれて、その私生活の乱脈さ背徳性などは問題になったことが一度もない。 アパートの半数以上は軍需工場の寮となり、そこにも女子挺身隊ていしんたいの集団が住んでいて、何課の誰さんの愛人だの課長殿の戦時夫人(というのはつまり本物の夫人は疎開中ということだ)だの重役の二号だの会社を休んで月給だけ貰っている姙娠中の挺身隊だのがいるのである。 中に一人五百円の妾というのが一戸を構えていて羨望の的であった。 人殺しが商売だったという満洲浪人(この妹は仕立屋の弟子)の隣は指圧の先生で、その隣は仕立屋銀次の流れをくむその道の達人だということであり、その裏に海軍少尉がいるのだが、毎日魚を食い珈琲コーヒーをのみ缶詰をあけ酒を飲み、このあたりは一尺掘ると水がでるので、防空壕の作りようもないというのに、少尉だけはセメントを用いて自宅よりも立派な防空壕をもっていた。 又、伊沢が通勤に通る道筋の百貨店(木造二階建)は戦争で商品がなく休業中だが、二階では連日賭場が開帳されており、その顔役は幾つかの国民酒場を占領して行列の人民共をにらみつけて連日泥酔していた。

伊沢は大学を卒業すると新聞記者になり、つづいて文化映画の演出家(まだ見習いで単独演出したことはない)になった男で、二十七の年齢にくらべれば裏側の人生にいくらか知識はあるはずで、政治家、軍人、実業家、芸人などの内幕に多少の消息は心得ていたが、場末の小工場とアパートにとりかこまれた商店街の生態がこんなものだとは想像もしていなかった。 戦争以来人心がすさんだせいだろうと訊いてみると、いえ、なんですよ、このへんじゃ、先からこんなものでしたねえ、と仕立屋は哲学者のような面持で静かに答えるのであった。

けれども最大の人物は伊沢の隣人であった。

この隣人は気違いだった。 相当の資産があり、わざわざ路地のどん底を選んで家を建てたのも気違いの心づかいで、泥棒乃至ないし無用の者の侵入を極度に嫌った結果だろうと思われる。 なぜなら、路地のどん底に辿たどりつきこの家の門をくぐって見廻すけれども戸口というものがないからで、見渡す限り格子のはまった窓ばかり、この家の玄関は門と正反対の裏側にあって、要するにいっぺんグルリと建物を廻った上でないと辿りつくことができない。 無用の侵入者はさじを投げて引下る仕組であり、乃至は玄関を探してうろつくうちに何者かの侵入を見破って警戒管制に入るという仕組でもあって、隣人は浮世の俗物どもを好んでいないのだ。 この家は相当間数のある二階建であったが、内部の仕掛に就いては物知りの仕立屋も多く知らなかった。

気違いは三十前後で、母親があり、二十五六の女房があった。 母親だけは正気の人間の部類に属している筈だという話であったが、強度のヒステリイで、配給に不服があると跣足はだしで町会へ乗込んでくる町内唯一の女傑であり、気違いの女房は白痴であった。 ある幸多き年のこと、気違いが発心ほっしんして白装束に身をかため四国遍路に旅立ったが、そのとき四国のどこかしらで白痴の女と意気投合し、遍路みやげに女房をつれて戻ってきた。 気違いは風采堂々たる好男子であり、白痴の女房はこれもしかるべき家柄の然るべき娘のような品の良さで、眼の細々とうっとうしい、瓜実顔うりざねがおの古風の人形か能面のような美しい顔立ちで、二人並べて眺めただけでは、美男美女、それも相当教養深遠な好一対としか見受けられない。 気違いは度の強い近眼鏡をかけ、常に万巻の読書に疲れたような憂わしげな顔をしていた。

ある日この路地で防空演習があってオカミさん達が活躍していると、着流し姿でゲタゲタ笑いながら見物していたのがこの男で、そのうちにわかに防空服装に着かえて現れて一人のバケツをひったくったかと思うと、エイとか、ヤーとか、ホーホーという数種類の奇妙な声をかけて水を汲み水を投げ、梯子はしごをかけて塀に登り、屋根の上から号令をかけ、やがて一場の演説(訓辞)を始めた。 伊沢はこのときに至って始めて気違いであることに気付いたので、この隣人は時々垣根から侵入してきて仕立屋の豚小屋で残飯のバケツをぶちまけついでに家鴨に石をぶつけ、全然何食わぬ顔をして鶏に餌をやりながら突然蹴とばしたりするのであったが、相当の人物と考えていたので、静かに黙礼などを取交していたのであった。

だが、気違いと常人とどこが違っているというのだ。

序章-章なし
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白痴 - 情報

白痴

はくち

文字数 22,903文字

著者リスト:
著者坂口 安吾

底本 坂口安吾全集4

親本 白痴

青空情報


底本:「坂口安吾全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1990(平成2)年3月27日第1刷発行
底本の親本:「白痴」中央公論社
   1947(昭和22)年5月10日発行
初出:「新潮 第四十三巻第六号」
   1946(昭和21)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:伊藤時也
2005年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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