続堕落論
著者:坂口安吾
ぞくだらくろん - さかぐち あんご
文字数:7,617 底本発行年:1947
敗戦後国民の道義
私の生れ育った新潟市は石油の産地であり、したがって石油成金の産地でもあるが、私が小学校のころ、中野貫一という成金の一人が産をなして後も大いに倹約であり、停車場から人力車に乗ると値がなにがしか高いので
百万長者が五十銭の車代を三十銭にねぎることが美徳なりや。
我等の日常お手本とすべき生活であるか。
この話一つに
戦争中私は日本映画社というところで嘱託をしていた。
そのとき、やっぱり嘱託の一人にOという新聞聯合の理事だか何かをしている威勢のいい男がいて、談論風発、吉川英治と佐藤紅緑が日本で偉い文学者だとか、そういう大先生であるが、会議の席でこういう映画を作ったらよかろうと言って意見をのべた。
その映画というのは老いたる農夫のゴツゴツ
この話は会議の席では大いに反響をよんだもので、専務(事実上の社長)などは大感服、僕をかえりみて、君あれを脚本にしないかなどと言われて、私は御辞退申上げるのに苦労したものであるが、この話とてもこの場かぎりの戦時中の一場の悪夢ではないだろう。 戦争中は農村文化へかえれ、農村の魂へかえれ、ということが絶叫しつづけられていたのであるが、それは一時の流行の思想であるとともに、日本大衆の精神でもあった。
一口に農村文化というけれども、そもそも農村に文化があるか。
盆踊りだのお祭礼風俗だの、耐乏精神だの本能的な貯蓄精神はあるかも知れぬが、文化の本質は進歩ということで、農村には進歩に関する毛一筋の影だにない。
あるものは排他精神と、他へ対する不信、疑ぐり深い魂だけで、損得の執拗な計算が発達しているだけである。
農村は
大化改新以来、農村精神とは脱税を案出する
日本の農村は今日に於ても尚奈良朝の農村である。 今日諸方の農村に於ける相似た民事裁判の例、境界のウネを五寸三寸ずつ動かして隣人を裏切り、証文なしで田を借りて返さず親友を裏切る。 彼等は親友隣人を執拗に裏切りつづけているではないか。 損得という利害の打算が生活の根柢で、より高い精神への渇望、自我の内省と他の発見は農村の精神に見出すことができない。 他の発見のないところに真実の文化が有りうべき筈はない。 自我の省察のないところに文化の有りうべき筈はない。
農村の美徳は耐乏、忍苦の精神だという。
必要は発明の母という。 その必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと云い、耐乏を美徳と称す。 一里二里は歩けという。 五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。