肝臓先生
著者:坂口安吾
かんぞうせんせい - さかぐち あんご
文字数:22,885 底本発行年:1998
終戦後二年目の八月十五日のことであるが、伊豆の伊東温泉に三浦按針祭というものが行われて、当日に限って伊東市は一切の禁令を解除し、旅館や飲食店はお酒をジャン/\のませてもよいし、スシでもドンブリでも何を売ってもよろしい、という地区司令官の布告がでたという。
戦争以来伊東へ疎開している彫刻家のQから速達がきて、右のような次第で、当温泉は全市をあげて当日を手グスネひいて待ちかまえて、すでに今から活気横溢しているほどだから、当日の壮観が思いやられるではないか。 ぜひ来遊したまえ、という招待であった。
終戦二年目の八月といえば、日本カイビャク以来これほど意気消沈していたことは例がない。 と云うのは、その年の七月に、料理飲食店禁止令というものがでゝ、一切の飲みもの食べものの営業がバッタリと杜絶した。 禁令というものは、かならず抜け道が現れて、裏口繁昌、表口よりもワリがよくて禁令大歓迎というのが乱世の常道だ。 アル・カポネや蜂須賀小六大成功の巻となる。 これが今日では常識であるが、はじめて禁令をくらった歴史的瞬間というものは、全然の初心者であるから、アレヨ、アレヨと云って途方にくれ、未来のアル・カポネたちも店をたたんで腕を組み天を仰いでいるばかり。 真夏の太陽はいたずらにカンカンてりかがやき、津々浦々ゲキとして物音もない寂しい日本となってしまった。
この時に当って、たった一日でも禁令を解除するというから、きいただけで心ウキウキしてしもう。
私が大いなる感動をもって招待に応じたのは、云うまでもないところで、ところが私をむかえた友人は浮かぬ顔。
「アレはデマでね。 話がうますぎると思ったよ。 こんなことがあればいゝと、みんな同じ夢を見ているんだろうな。 誰か一人がヤケッパチに思いつきを言ったのが、全市を風靡したものらしいよ」
温泉町で、酒ものませない、御飯もたべさせない、となると、万事温泉客に依存している町柄であるから、全市死相を呈するのは仕方がない。
駅前にはアーチをたてて按針祭の景気を煽っているが、電車から吐きだされた旅行者らしきものは私ひとり、いくらか人の肩と肩がすれちがうのは道幅一間ほどの闇市だけで、大通りは、光と影をみだすものとては熱気のこもった微風だけである。 常には賑いを独占している遊興街も軒なみに門戸をとざし、従業婦もとッくにオハライバコで、死の街であった。
「しかし、君の旅情を慰めるためには別アツライの席が設けてあるから、落胆しないでくれたまえ。 どうやら、君の歩く足が、とみに生気を失ったようだが」
と、彼は私を慰めて、
「せっかく意気ごんで来てくれたのに、夢の一日は煙と消えて、こんなことを頼むのは恐縮だが、君にひとつ尽力してもらいたいことがある」
「なんだい」
「詩をつくってもらいたい」
私は返事の代りにふきだしてしまった。 生れて以来、一度や二度は詩をつくったことがないでもないが、散文を書きなれた私には、圧縮された微妙な語感はすでに無縁で、語にとらわれると、物自体を失う。 物自体に即することが散文の本質で、語に焦点をおくことを本質的に嫌わねばならないのである。
私がふきだしたのを見て、友人は気分を損ねたようである。
「まア、いゝさ。 今に、わかるだろうよ」
森の魔女が
「君に見せたいものがある」
彼は私をアトリエへ案内した。 アトリエのマンナカに、なんとも異様な大きな石が、ツヤツヤみがきこんである。
「君に見てもらいたいのは、この石像だが」
「石像?」
「ウン」
「この石でつくるのかい」
「これが完成した石像なんだよ」