葉桜と魔笛
著者:太宰治
はざくらとまてき - だざい おさむ
文字数:6,123 底本発行年:1975
桜が散って、このように葉桜のころになれば、私は、きっと思い出します。
――と、その老夫人は物語る。
――いまから三十五年まえ、父はその頃まだ存命中でございまして、私の一家、と言いましても、母はその七年まえ私が十三のときに、もう他界なされて、あとは、父と、私と妹と三人きりの家庭でございましたが、父は、私十八、妹十六のときに島根県の日本海に沿った人口二万余りの或るお城下まちに、中学校長として赴任して来て、
野も山も新緑で、はだかになってしまいたいほど温く、私には、新緑がまぶしく、眼にちかちか痛くって、ひとり、いろいろ考えごとをしながら帯の間に片手をそっと差しいれ、うなだれて野道を歩き、考えること、考えること、みんな苦しいことばかりで息ができなくなるくらい、私は、身悶えしながら歩きました。
どおん、どおん、と春の土の底の底から、まるで十万億土から響いて来るように、
あとで知ったことでございますが、あの恐しい不思議な物音は、日本海大海戦、軍艦の大砲の音だったのでございます。 東郷提督の命令一下で、露国のバルチック艦隊を一挙に撃滅なさるための、大激戦の最中だったのでございます。 ちょうど、そのころでございますものね。 海軍記念日は、ことしも、また、そろそろやってまいります。 あの海岸の城下まちにも、大砲の音が、おどろおどろ聞えて来て、まちの人たちも、生きたそらが無かったのでございましょうが、私は、そんなこととは知らず、ただもう妹のことで一ぱいで、半気違いの有様だったので、何か不吉な地獄の太鼓のような気がして、ながいこと草原で、顔もあげずに泣きつづけて居りました。 日が暮れかけて来たころ、私はやっと立ちあがって、死んだように、ぼんやりなってお寺へ帰ってまいりました。
「ねえさん。」
と妹が呼んでおります。
妹も、そのころは、
「ねえさん、この手紙、いつ来たの?」
私は、はっと、むねを突かれ、顔の血の気が無くなったのを自分ではっきり意識いたしました。
「いつ来たの?」妹は、無心のようでございます。 私は、気を取り直して、
「ついさっき。 あなたが眠っていらっしゃる間に。 あなた、笑いながら眠っていたわ。 あたし、こっそりあなたの枕もとに置いといたの。 知らなかったでしょう?」
「ああ、知らなかった。」 妹は、夕闇の迫った薄暗い部屋の中で、白く美しく笑って、「ねえさん、あたし、この手紙読んだの。 おかしいわ。 あたしの知らないひとなのよ。」
知らないことがあるものか。