• URLをコピーしました!

愛撫

著者:梶井基次郎

あいぶ - かじい もとじろう

文字数:2,834 底本発行年:1972
著者リスト:
著者梶井 基次郎
0
0
0


序章-章なし

猫の耳というものはまことに可笑おかしなものである。 薄べったくて、冷たくて、竹の子の皮のように、表には絨毛じゅうもうが生えていて、裏はピカピカしている。 かたいような、柔らかいような、なんともいえない一種特別の物質である。 私は子供のときから、猫の耳というと、一度「切符切り」でパチンとやってみたくてたまらなかった。 これは残酷な空想だろうか?

否。 まったく猫の耳の持っている一種不可思議な示唆しさ力によるのである。 私は、家へ来たある謹厳な客が、膝へあがって来た仔猫の耳を、話をしながら、しきりにつねっていた光景を忘れることができない。

このような疑惑は思いの外に執念深いものである。 「切符切り」でパチンとやるというような、児戯に類した空想も、思い切って行為に移さない限り、われわれのアンニュイのなかに、外観上の年齢をはるかにながく生き延びる。 とっくに分別のできた大人が、今もなお熱心に――厚紙でサンドウィッチのように挾んだうえから一思いに切ってみたら? ――こんなことを考えているのである! ところが、最近、ふとしたことから、この空想の致命的な誤算が曝露ばくろしてしまった。

元来、猫は兎のように耳でり下げられても、そう痛がらない。 引っ張るということに対しては、猫の耳は奇妙な構造を持っている。 というのは、一度引っ張られて破れたような痕跡が、どの猫の耳にもあるのである。 その破れた箇所には、また巧妙な補片つぎが当っていて、まったくそれは、創造説を信じる人にとっても進化論を信じる人にとっても、不可思議な、滑稽な耳たるを失わない。 そしてその補片つぎが、耳を引っ張られるときのゆるめになるにちがいないのである。 そんなわけで、耳を引っ張られることに関しては、猫はいたって平気だ。 それでは、圧迫に対してはどうかというと、これも指でつまむくらいでは、いくら強くしても痛がらない。 さきほどの客のようにつねって見たところで、ごくまれにしか悲鳴を発しないのである。 こんなところから、猫の耳は不死身のような疑いを受け、ひいては「切符切り」の危険にもさらされるのであるが、ある日、私は猫と遊んでいる最中に、とうとうその耳をんでしまったのである。 これが私の発見だったのである。 噛まれるや否や、その下らない奴は、直ちに悲鳴をあげた。 私の古い空想はその場でこわれてしまった。 猫は耳を噛まれるのが一番痛いのである。 悲鳴は最もかすかなところからはじまる。 だんだん強くするほど、だんだん強く鳴く。 Crescendo のうまく出る――なんだか木管楽器のような気がする。

私のながらくの空想は、かくの如くにして消えてしまった。 しかしこういうことにはきりがないと見える。 この頃、私はまた別なことを空想しはじめている。

それは、猫の爪をみんな切ってしまうのである。 猫はどうなるだろう? おそらく彼は死んでしまうのではなかろうか?

いつものように、彼は木登りをしようとする。 ――できない。 人の裾を目がけて跳びかかる。 ――ちがう。 爪をごうとする。 ――なんにもない。 おそらく彼はこんなことを何度もやってみるにちがいない。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

愛撫 - 情報

愛撫

あいぶ

文字数 2,834文字

著者リスト:

底本 檸檬・ある心の風景 他二十編

青空情報


底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社
   1972(昭和47)年12月10日初版発行
   1974(昭和49)年第4刷発行
初出:「詩・現実」
   1930(昭和5)年6月
※表題は底本では、「愛撫(あいぶ)」となっています。
※編集部による傍注は省略しました。
入力:j.utiyama
校正:高橋美奈子
1999年1月11日公開
2016年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:愛撫

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!