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玄鶴山房

著者:芥川龍之介

げんかくさんぼう - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:12,301 底本発行年:1978
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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………それは小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家だった。 もっともこの界隈かいわいにはこう云う家も珍しくはなかった。 が、「玄鶴山房げんかくさんぼう」の額や塀越しに見える庭木などはどの家よりも数奇すきを凝らしていた。

この家の主人、堀越玄鶴は画家としても多少は知られていた。 しかし資産を作ったのはゴム印の特許を受けた為だった。 或はゴム印の特許を受けてから地所の売買をした為だった。 現に彼が持っていた郊外の或地面などは生姜しょうがさえろくに出来ないらしかった。 けれども今はもう赤瓦あかがわらの家や青瓦の家の立ち並んだ所謂いわゆる「文化村」に変っていた。 ………

しかし「玄鶴山房」はかく小ぢんまりと出来上った、奥床しい門構えの家だった。 殊に近頃は見越しの松に雪よけの縄がかかったり、玄関の前に敷いた枯れ松葉に藪柑子やぶこうじの実が赤らんだり、一層風流に見えるのだった。 のみならずこの家のある横町もほとんど人通りと云うものはなかった。 豆腐屋さえそこを通る時には荷を大通りへおろしたなり、喇叭らっぱを吹いて通るだけだった。

「玄鶴山房――玄鶴と云うのは何だろう?」

たまたまこの家の前を通りかかった、髪の毛の長い画学生は細長い絵の具箱を小脇こわきにしたまま、同じ金鈕きんボタンの制服を着たもう一人の画学生にこう言ったりした。

「何だかな、まさか厳格と云う洒落しゃれでもあるまい。」

彼等は二人とも笑いながら、気軽にこの家の前を通って行った。 そのあとにはただて切った道に彼等のどちらかが捨てて行った「ゴルデン・バット」の吸い殻が一本、かすかに青い一すじの煙を細ぼそと立てているばかりだった。 ………

重吉は玄鶴の婿になる前から或銀行へ勤めていた。 従って家に帰って来るのはいつも電灯のともる頃だった。 彼はこの数日以来、門の内へはいるが早いか、たちまち妙な臭気を感じた。 それは老人には珍しい肺結核の床にいている玄鶴の息のにおいだった。 が、勿論もちろん家の外にはそんな匂の出るはずはなかった。 冬の外套がいとうわきの下に折鞄おりかばんを抱えた重吉は玄関前の踏み石を歩きながら、こういう彼の神経を怪まないわけには行かなかった。

玄鶴は「離れ」に床をとり、横になっていない時には夜着の山によりかかっていた。 重吉は外套や帽子をとると、必ずこの「離れ」へ顔を出し、「唯今ただいま」とか「きょうは如何ですか」とか言葉をかけるのを常としていた。 しかし「離れ」のしきいの内へは滅多に足も入れたことはなかった。 それはしゅうとの肺結核に感染するのをおそれる為でもあり、又一つには息の匂を不快に思う為でもあった。 玄鶴は彼の顔を見る度にいつも唯「ああ」とか「お帰り」とか答えた。 その声は又力の無い、声よりも息に近いものだった。 重吉は舅にこう言われると、時々彼の不人情に後ろめたい思いもしない訣ではなかった。 けれども「離れ」へはいることはどうも彼には無気味だった。

それから重吉は茶の間の隣りにやはり床に就いているしゅうとめのお鳥を見舞うのだった。 お鳥は玄鶴の寝こまない前から、――七八年前から腰抜けになり、便所へも通えない体になっていた。 玄鶴が彼女を貰ったのは彼女が或大藩の家老の娘と云う外にも器量望みからだと云うことだった。 彼女はそれだけに年をとっても、どこか目などは美しかった。 しかしこれも床の上にすわり、丹念に白足袋しろたびなどを繕っているのは余りミイラと変らなかった。

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玄鶴山房 - 情報

玄鶴山房

げんかくさんぼう

文字数 12,301文字

著者リスト:

底本 昭和文学全集 第1巻

親本 芥川龍之介全集 第八卷

青空情報


底本:「昭和文学全集 第1巻」小学館
   1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
底本の親本:「芥川龍之介全集 第八卷」岩波書店
   1978(昭和53)年3月22日発行
初出:一、二「中央公論 第四十二年第一号」
   1927(昭和2)年1月1日発行
   三〜六「中央公論 第四十二年第二号」
   1927(昭和2)年2月1日発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年10月14日公開
2016年2月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:玄鶴山房

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