序章-章なし
一
越中高岡より倶利伽羅下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗り合い馬車あり。
賃銭の廉きがゆえに、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに便りぬ。
車夫はその不景気を馬車会社に怨みて、人と馬との軋轢ようやくはなはだしきも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相干さざるを装えども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。
七月八日の朝、一番発の馬車は乗り合いを揃えんとて、奴はその門前に鈴を打ち振りつつ、
「馬車はいかがです。
むちゃに廉くって、腕車よりお疾うござい。
さあお乗んなさい。
すぐに出ますよ」
甲走る声は鈴の音よりも高く、静かなる朝の街に響き渡れり。
通りすがりの婀娜者は歩みを停めて、
「ちょいと小僧さん、石動までいくら? なに十銭だとえ。
ふう、廉いね。
その代わりおそいだろう」
沢庵を洗い立てたるように色揚げしたる編片の古帽子の下より、奴は猿眼を晃かして、
「ものは可試だ。
まあお召しなすってください。
腕車よりおそかったら代は戴きません」
かく言ううちも渠の手なる鈴は絶えず噪ぎぬ。
「そんなりっぱなことを言って、きっとだね」
奴は昂然として、
「虚言と坊主の髪は、いったことはありません」
「なんだね、しゃらくさい」
微笑みつつ女子はかく言い捨てて乗り込みたり。
その年紀は二十三、四、姿はしいて満開の花の色を洗いて、清楚たる葉桜の緑浅し。
色白く、鼻筋通り、眉に力みありて、眼色にいくぶんのすごみを帯び、見るだに涼しき美人なり。
これはたして何者なるか。
髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に※脂[#「月+因」、6-15]のみを点したり。
服装は、将棊の駒を大形に散らしたる紺縮みの浴衣に、唐繻子と繻珍の昼夜帯をばゆるく引っ掛けに結びて、空色縮緬の蹴出しを微露し、素足に吾妻下駄、絹張りの日傘に更紗の小包みを持ち添えたり。
挙止侠にして、人を怯れざる気色は、世磨れ、場慣れて、一条縄の繋ぐべからざる魂を表わせり。
想うに渠が雪のごとき膚には、剳青淋漓として、悪竜焔を吐くにあらざれば、寡なくも、その左の腕には、双枕に偕老の名や刻みたるべし。
馬車はこの怪しき美人をもって満員となれり。
発車の号令は割るるばかりにしばらく響けり。
向者より待合所の縁に倚りて、一篇の書を繙ける二十四、五の壮佼あり。
盲縞の腹掛け、股引きに汚れたる白小倉の背広を着て、ゴムの解れたる深靴を穿き、鍔広なる麦稈帽子を阿弥陀に被りて、踏ん跨ぎたる膝の間に、茶褐色なる渦毛の犬の太くたくましきを容れて、その頭を撫でつつ、専念に書見したりしが、このとき鈴の音を聞くと斉しく身を起こして、ひらりと御者台に乗り移れり。
渠の形躯は貴公子のごとく華車に、態度は森厳にして、そのうちおのずから活溌の気を含めり。
陋しげに日に
みたる面も熟視れば、清※明眉[#「目+盧」、7-12]、相貌秀でて尋常ならず。
とかくは馬蹄の塵に塗れて鞭を揚ぐるの輩にあらざるなり。
御者は書巻を腹掛けの衣兜に収め、革紐を附けたる竹根の鞭を執りて、徐かに手綱を捌きつつ身構うるとき、一輛の人力車ありて南より来たり、疾風のごとく馬車のかたわらを掠めて、瞬く間に一点の黒影となり畢んぬ。