• URLをコピーしました!

英雄の器

著者:芥川龍之介

えいゆうのうつわ - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:1,603 底本発行年:1971
著者リスト:
著者芥川 竜之介
0
0
0


序章-章なし

「何しろ項羽こううと云う男は、英雄のうつわじゃないですな。」

かんの大将呂馬通りょばつうは、ただでさえ長い顔を、一層長くしながら、まばらひげを撫でて、こう云った。 彼の顔のまわりには、十人あまりの顔が、皆まん中に置いた燈火ともしびの光をうけて、赤く幕営の夜の中にうき上っている。 その顔がまた、どれもいつになく微笑を浮べているのは、西楚せいそ覇王はおうの首をあげた今日の勝戦かちいくさの喜びが、まだ消えずにいるからであろう。 ――

「そうかね。」

鼻の高い、眼光の鋭い顔が一つ、これはやや皮肉な微笑を唇頭に漂わせながら、じっと呂馬通りょばつうの眉の間を見ながら、こう云った。 呂馬通は何故なぜか、いささか狼狽ろうばいしたらしい。

「それは強いことは強いです。 何しろ塗山とざん禹王廟うおうびょうにある石のかなえさえげると云うのですからな。 現に今日のいくさでもです。 わたしは一時命はないものだと思いました。 李佐りさが殺される、王恒おうこうが殺される。 その勢いと云ったら、ありません。 それは実際、強いことは強いですな。」

「ははあ。」

相手の顔は依然として微笑しながら、鷹揚おうよううなずいた。 幕営の外はしんとしている。 遠くで二三度、かくの音がしたほかは、馬のいななく声さえ聞えない。 その中で、どことなく、枯れた木の葉のにおいがする。

「しかしです。」 呂馬通は一同の顔を見廻して、さも「しかし」らしく、ばたきを一つした。

「しかし、英雄のうつわじゃありません。 その証拠は、やはり今日の戦ですな。 烏江うこうに追いつめられた時の楚の軍は、たった二十八騎です。 雲霞うんかのような味方の大軍に対して、戦った所が、仕方はありません。 それに、烏江の亭長ていちょうは、わざわざ迎えに出て、江東こうとうへ舟で渡そうと云ったそうですな。 もし項羽こううに英雄の器があれば、垢を含んでも、烏江を渡るです。 そうして捲土重来けんどちょうらいするです。 面目めんもくなぞをかまっている場合じゃありません。」

「すると、英雄の器と云うのは、勘定に明いと云う事かね。」

このことばにつれて、一同の口からは、静な笑い声が上った。 が、呂馬通は、存外ひるまない。 彼は髯から手を放すと、ややり身になって、鼻の高い、眼光の鋭い顔を時々ちらりと眺めながら、勢いよく手真似てまねをして、しゃべり出した。

「いやそう云うつもりじゃないです。 ――項羽はですな。 項羽は、今日いくさの始まる前に、二十八人の部下の前で『項羽を亡すものは天だ。 人力の不足ではない。 その証拠には、これだけの軍勢で、必ず漢の軍を三度さんど破って見せる』と云ったそうです。

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

英雄の器 - 情報

英雄の器

えいゆうのうつわ

文字数 1,603文字

著者リスト:

底本 芥川龍之介全集2

親本 筑摩全集類聚版芥川龍之介全集

青空情報


底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月7日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:英雄の器

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!