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歌行灯

著者:泉鏡花

うたあんどん - いずみ きょうか

文字数:35,623 底本発行年:1942
著者リスト:
著者泉 鏡花
底本: 泉鏡花集成6
親本: 鏡花全集
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序章-章なし

宮重みやしげ大根のふとしく立てし宮柱は、ふろふきの熱田の神のみそなわす、七里のわたしなみゆたかにして、来往の渡船難なく桑名につきたるよろこびのあまり……

口誦くちずさむように独言ひとりごとの、膝栗毛ひざくりげ五編の上の読初め、霜月十日あまりの初夜。 中空なかぞら冴切さえきって、星が水垢離みずごり取りそうな月明つきあかりに、踏切の桟橋を渡る影高く、ともしびちらちらと目の下に、遠近おちこち樹立こだちの骨ばかりなのをながめながら、桑名の停車場ステエションへ下りた旅客がある。

月の影には相応ふさわしい、真黒まっくろ外套がいとうの、せた身体からだにちと広過ぎるを緩く着て、焦茶色の中折帽、真新しいはさていが、れない天窓あたまに山を立てて、つばをしっくりと耳へかぶさるばかり深くめた、あまつさえ、風に取られまいための留紐とめひもを、ぶらりとしなびた頬へ下げた工合ぐあいが、時世ときよなれば、道中、笠もせられず、と断念あきらめた風に見える。 年配六十二三の、気ばかり若い弥次郎兵衛やじろべえ

さまで重荷ではないそうで、唐草模様の天鵝絨びろうど革鞄かばんに信玄袋を引搦ひきからめて、こいつを片手。 片手に蝙蝠傘こうもりがさきながら、

「さて……悦びのあまり名物の焼蛤やきはまぐりに酒みかわして、……と本文ほんもんにあるところさ、旅籠屋はたごやちゃくの前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。 (どうだ、喜多八きだはち。)と行きたいが、其許そのもとは年上で、ちとそりが合わぬ。 だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、同伴つれの喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下った宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうになったとあるです。 ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。 その道づれと、んと一口ろうではないか、ええ、捻平ねじべいさん。」

「また、言うわ。」

と苦い顔を渋くした、同伴つれの老人は、まだ、その上を四つ五つで、やがて七十ななそじなるべし。 臘虎らっこ皮のつばなし古帽子を、白い眉尖まゆさき深々とかぶって、鼠の羅紗らしゃ道行みちゆき着た、股引ももひきを太く白足袋の雪駄穿せったばき せた鬱金うこんの風呂敷、真中まんなかを紐でゆわえた包を、西行背負さいぎょうじょいに胸で結んで、これも信玄袋を手に一つ。 片手につえいたけれども、足腰はしゃんとした、人柄のいお爺様じいさま

「その捻平はしにさっしゃい、人聞きが悪うてならん。 道づれはけれども、道中松並木で出来たと言うで、何とやら、その、わし護摩ごまの灰ででもあるように聞えるじゃ。」 と杖を一つとんと支くと、あとがんさきになって、改札口を早々さっさと出る。

わざと一足うしろへ開いて、隠居が意見に急ぐような、つれの後姿をじろりと見ながら、

「それ、そこがそれ捻平さね。 松並木で出来たと云って、何もごまのはいには限るまい。 もっとも若い内は遣ったかも知れんてな。 ははは、」

人も無げに笑う手から、引手繰ひったくるように切符を取られて、はっと駅夫の顔を見て、きょとんと生真面目きまじめ

成程、この小父者おじごが改札口を出た殿しんがりで、何をふらふら道草したか、汽車はもう遠くの方で、名物焼蛤の白い煙を、夢のように月下に吐いて、真蒼まっさおな野路を光って通る。 ……

「やがてここを立出たちい辿たどくほどに、旅人の唄うを聞けば、」

と小父者、出た処で、けろりとしてまた口誦くちずさんで、

「捻平さん、い文句だ、これさ。 ……

時雨蛤しぐれはまぐりみやげにさんせ

みやのおかめが、……ヤレコリャ、よオしよし。」

旦那だんな、お供はどうで、」

停車場ステエション前の夜のくまに、四五台朦朧もうろうと寂しく並んだ車の中から、車夫が一人、腕組みをして、のっそり出る。

これを聞くと弥次郎兵衛、口をじて片頬笑かたほえみ、

有難ありがてえ、図星という処へ出て来たぜ。

序章-章なし
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歌行灯 - 情報

歌行灯

うたあんどん

文字数 35,623文字

著者リスト:
著者泉 鏡花

底本 泉鏡花集成6

親本 鏡花全集

青空情報


底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年3月21日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
   1942(昭和17)年7月刊行開始
※底本で句点が抜けている箇所は親本を参照して補いました。
※誤植を疑った箇所はちくま日本文学全集を参照しました。
入力:門田裕志
校正:砂場清隆
2002年1月9日公開
2005年9月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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