• URLをコピーしました!

草迷宮

著者:泉鏡花

くさめいきゅう - いずみ きょうか

文字数:70,482 底本発行年:1941
著者リスト:
著者泉 鏡花
底本: 泉鏡花集成5
0
0
0


序章-章なし

向うの小沢にじゃが立って、

八幡はちまん長者の、おと娘、

よくも立ったり、巧んだり。

手には二本のたまを持ち、

足には黄金こがねの靴を穿き、

ああよべ、こうよべと云いながら、

山くれ野くれ行ったれば…………

三浦の大崩壊おおくずれを、魔所だと云う。

葉山一帯の海岸を屏風びょうぶくぎった、桜山のすそが、見もれぬけもののごとく、わだつみへ躍込んだ、一方は長者園の浜で、逗子ずしから森戸、葉山をかけて、夏向き海水浴の時分ころ人死ひとじにのあるのは、この辺ではここが多い。

一夏はげしい暑さに、雲の峰も焼いたあられのように小さく焦げて、ぱちぱちと音がして、火の粉になってこぼれそうな日盛ひざかりに、これからいて出て人間になろうと思われる裸体はだかの男女が、入交いりまじりに波に浮んでいると、かっとただ金銀銅鉄、真白まっしろに溶けたおおぞらの、どこに亀裂ひびが入ったか、破鐘われがねのようなる声して、

「泳ぐもの、帰れ。」 と叫んだ。

この呪詛のろいのために、浮べるやからはぶくりと沈んで、四辺あたり白泡しらあわとなったと聞く。

また十七ばかり少年の、肋膜炎ろくまくえんを病んだ挙句が、保養にとて来ていたが、可恐おそろし身体からだを気にして、自分で病理学まで研究して、0,[#「,」は天地左右中央]などと調合する、朝夕ちょうせき検温気で度をはかる、三度の食事も度量衡はかりで食べるのが、秋の暮方、誰も居ない浪打際を、生白い痩脛やせずね高端折たかはしょり跣足はだしでちょびちょび横歩行あるきで、日課のごとき運動をしながら、つくづく不平らしく、海に向って、高慢な舌打して、

「ああ、退屈だ。」

つぶやくと、頭上のがけ胴中どうなかから、異声を放って、

「親孝行でもしろ――」とわめいた。

ために、その少年はいたく煩い附いたと云う。

そんなこんなで、そこが魔所だの風説は、近頃一層甚しくなって、知らずに大崩壊おおくずれのぼるのを、土地の者が見着けると、百姓はくわ杖支つえつき、船頭はみよしに立って、下りろ、危い、と声を懸ける。

実際魔所でなくとも、大崩壊の絶頂は薬研やげん俯向うつむけに伏せたようで、またぐとあぶみの無いばかり。 馬の背に立ついわお、狭く鋭く、くびすから、爪先つまさきから、ずかり中窪なかくぼに削った断崖がけの、見下ろすふもとの白浪に、揺落ゆりおとさるるおもいがある。

さて一方は長者園のなぎさへは、浦の波が、しずかひらいて、せわしくしかも長閑のどかに、とりたたく音がするのに、ただ切立きったてのいわ一枚、一方は太平洋の大濤おおなみが、牛のゆるがごとき声して、ゆるやかにしかもすさまじく、うう、おお、とうなって、三崎街道の外浜に大うねりを打つのである。

右から左へ、わずかに瞳を動かすさえ、杜若かきつばた咲く八ツ橋と、月の武蔵野ほどに趣が激変して、浦には白帆のかもめが舞い、沖を黒煙くろけむりの竜がはしる。

これだけでもめくるめくばかりなるに、足許あしもとは、岩のそのつるぎの刃を渡るよう。 取縋とりすがる松の枝の、海を分けて、種々いろいろの波の調べのかかるのも、人が縋れば根が揺れて、攀上よじのぼったあえぎもまぬに、汗をつめとうする風が絶えぬ。

さればとて、これがためにその景勝をきずつけてはならぬ。 大崩壊おおくずれいわおはだは、春は紫に、夏は緑、秋くれないに、冬は黄に、藤を編み、つたまとい、鼓子花ひるがおも咲き、竜胆りんどうも咲き、尾花がなびけば月もす。 いで、紺青こんじょうの波を蹈んで、水天の間に糸のごとき大島山に飛ばんず姿。 巨匠がのみを施した、青銅の獅子ししおもかげあり。 その美しき花の衣は、彼が威霊をたたえたる牡丹花ぼたんかかざりに似て、根に寄る潮の玉を砕くは、日に黄金こがね、月に白銀、あるいは怒り、あるいは殺す、き大自在の爪かと見ゆる。

修業中の小次郎法師が、諸国一見の途次みちすがら、相州三崎まわりをして、秋谷あきやの海岸を通った時の事である。

くだん大崩壊おおくずれの海に突出でた、獅子王の腹を、太平洋の方から一町ばかり前途ゆくてに見渡す、街道ばたの――直ぐ崖の下へ白浪が打寄せる――江の島と富士とを、すだれに透かして描いたような、ちょっとした葭簀張よしずばりの茶店に休むと、うばが口の長い鉄葉ブリキ湯沸ゆわかしから、渋茶をいで、人皇にんのう何代の御時おんときかの箱根細工の木地盆に、装溢もりこぼれるばかりなのを差出した。

床几しょうぎ在処ありかも狭いから、今注いだので、引傾ひっかたむいた、湯沸の口を吹出す湯気は、むらむらと、法師の胸になびいたが、それさえさっと涼しい風で、冷い霧のかかるような、法衣ころもの袖は葭簀を擦って、外の小松へ飜る。

さわやかな心持に、道中の里程を書いた、名古屋扇も開くに及ばず、畳んだなり、肩をはずした振分けの小さな荷物の、白木綿のつなぎめを、押遣おしやって、

「千両、」とがぶりと呑み、

「ああ、うまい、これは結構。」 莞爾にっこりして、

序章-章なし
━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

草迷宮 - 情報

草迷宮

くさめいきゅう

文字数 70,482文字

著者リスト:
著者泉 鏡花

底本 泉鏡花集成5

親本 鏡花全集 第十一卷

青空情報


底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日第1刷発行
※疑問点の確認にあたっては、底本の親本を参照しました。
※「それとも鼠だが」の「だが」は、底本の親本でもママですが、岩波文庫版では「だか」となっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2003年8月28日作成
2006年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:草迷宮

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!