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「女らしさ」とは何か

著者:与謝野晶子

「おんならしさ」とはなにか - よさの あきこ

文字数:7,335 底本発行年:1921
著者リスト:
著者与謝野 晶子
親本: 人間礼拝
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序章-章なし

日本人は早く仏教に由って「無常迅速の世の中」と教えられ、儒教に由って「日に新たにしてまた日に新たなり」ということを学びながら、それを小乗的悲観の意味にばかり解釈して来たために、「万法流転」が人生の「常住の相」であるという大乗的楽観に立つことが出来ず、現代に入って、舶載の学問芸術のお蔭で「流動進化」の思想と触れるに到っても、ややもすれば、新しい現代の生活を呪詛じゅそして、かびの生えた因習思想を維持しようとする人たちを見受けます。 たとえていうなら、その人たちは後ろばかりを見ている人たちで、現実を正視することに怠惰たいだであると共に、未来を透察することにも臆病であるのです。 そういう人たちは保守主義者の中にもあれば、似非えせ進歩主義者の中にもあるかと思います。

私のおりおり顰蹙ひんしゅくすることは、その人たちがしばしば「女子の中性化」というような言葉を用いて現代の重要問題の一つである女子解放運動を善くないことのように論じることです。 それはその人たちが女子の人間的進化を嫌う偏見を先入的に持っていると共に、人生を一つの法則、一つの様式の中に固定すべきものと考える静態的な因習思想を維持するために、わざわざ、人のいやがる言葉を掲げて、一方には女子を威嚇いかくしてその新しい擡頭たいとうを抑えようとし、一方には社会の聡明な判断をき乱して、女子解放運動に同情を失わしめようとする卑劣千万な論法であるように、私には感じられます。 私はそれについて、少しばかり抗議を書こうと思います。

その人たちの言う所をかいつまんで述べますと、女子が男子と同じ程度の高い教育を受けたり、男子と同じ範囲の広い職業に就いたりすると、女子特有の美くしい性情である「女らしさ」というものを失って、女とも附かず、男とも附かない中間性の変態的な人間が出来上るから宜しくないというのです。

私は第一に問いたい。 その人たちのいわれるような結論は何を前提にして生じるのですか。 一般の女子に中学程度の学校教育をすら授けないでいる日本において、また市町村会議員となる資格さえ女子に許していない日本において、どうして、男子と同等の教育とか職業とかいうことが軽々しく口にされるのですか。 女子に対してまだ何事も男子と同等の自由を与えないで置いて、早くもその結果を否定するのは臆断も甚だしいではありませんか。

それよりも、論者に対して、もっと肉迫して私の問いたいことは、女子が果して論者のいうような最上の価値を持った「女らしさ」というものを特有しているでしょうか。 私にはそれが疑問です。

論者は、「女らしさ」というものを、女子の性情の第一位に置き、その下にすべての性情を隷属させようとしています。 女子に、どのような優れた多くの他の性情があっても、唯だ一つの「女らしさ」を欠けば、それがために人間的価値はゼロとなり、女子は独立した人格者でなくなるというのが論者の意見らしいのです。 私は疑います、「女らしさ」というものが果してそんなに最高最善の標準として女子の人格を支配するものでしょうか。

そもそも、その「女らしさ」という物の正体は何でしょう。 我国では女子が外輪に歩くと「女らしくない」といって批難されます。 また女子が活溌な遊戯でもすると「女らしくない」といって笑われます。 そうすると、内輪に歩くということ、人形のように温順おとなしくしているということなどが「女らしさ」の一つの条件であることは確かです。 しかし日本ではそうでしょうけれども、欧米の女子はことごとく外輪で歩いています。 また我国でも多くの女学生が唯今は靴を穿いて外輪に歩きます。 また欧米では、戦後に一層女子の体育が盛んになり、女学生の帽や服装に男子と同じものを用いてまで、活溌な運動に適するように努力しています。 そうして、それがために「女らしさ」を失ったという批難が欧米において起らないのを見ると、論者の有難がる「女らしさ」というものは、全人類に通用しない、日本人だけのものであるように思われますがどうでしょうか。

論者は、「男子のすることを女子がすると、女らしさを失う」というのですが、人間の活動に、男子のする事、女子のする事という風に、先天的に決定して賦課されているものがあるでしょうか。 私は女子が「妊娠する」という一事を除けば、男女の性別に由って宿命的に課せられている分業というものを見出すことが出来ません。

紫式部の日記を読むと、この稀有けうの女流文豪が儕輩せいはいの批難を怖れて、平生は「一」という文字すらどうして書くか知らないような風を装い、中宮ちゅうぐうのために楽府がふを講じるにも人目を避けてそっと秘密に講じています。 女子の学問著述が男子の領分を侵している事のように、その同性の間においてさえ誤解されていて、紫式部がそれをはばかったのは、生意気だとして憎まれるからであったのですが、しかしこれがために紫式部を「女らしさ」を欠いた人間であるとは昔も今も言わないようです。

政治や軍事は昔から男子の専任のように思っていますけれども、我国の歴史を見ただけでも、女帝があり、女子の政治家があり、女兵があり、幕末の勤王婦人等があって、それが「女子の中性化」の実例として批難されていないのみならず、神功じんぐう皇后は神として奉祀ほうしされ、その他の女子も倫理的の価値を以て、それぞれ国民の尊敬を受けています。 また現在の世界には、女子の代議士、知事、市長、学者、芸術家、社会改良家、教師、評論家、新聞雑誌記者、飛行家、運転手、車掌、官公吏、事務員等があって、従来は男子の領域であるとされていた活動に多数の女子が従事しています。 殊に最近の世界大戦には、英国の軍需省附属の工場だけでも二百万の女子が家庭を離れて、戦時のあらゆる勤務に服し、戦場で用いられた弾丸の九分までを女子の手で製造するような空前の活動を示して、平和克復の日に軍需大臣が議会において女子に対する感謝演説を試みた中に、「英国が勝利を得た原因の半は女子にあることを拒むことが出来ない」と述べたほどでした。

して見ると、男子のする事を女子もするからといって、「女らしさ」を失うという批難は当らないことになります。 もし男女の性別に由って歴史的に定まった分業の領域が永久に封鎖されているものなら、男子が裁縫師となり、料理人となり、洗濯業者となり、紡績工となることは、女子の領域を侵すものとして、「男子の中性化」が論じられなければならないはずです。 「女のする日記というもの」を書いた紀貫之きのつらゆきも、同じ理由から、その「男らしさ」を失った人間として批難されねばなりませんが、歌人として、また国語を以て文章を書いた先覚者として尊敬されているのはどうした訳でしょうか。

論者はまた、「女らしさ」とは愛と、優雅と、つつましやかさとを備えていることをいうのである。 その反対に「女らしくない」ということは、無情、冷酷、生意気、半可通、不作法、粗野、軽佻等を意味するのであるといわれるでしょう。

序章-章なし
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「女らしさ」とは何か - 情報

「女らしさ」とは何か

「おんならしさ」とはなにか

文字数 7,335文字

著者リスト:

底本 与謝野晶子評論集

親本 人間礼拝

青空情報


底本:「与謝野晶子評論集」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年8月16日初版発行
   1994(平成6年)年6月6日10刷発行
底本の親本:「人間礼拝」天佑社
   1921(大正10)年3月初版発行
初出:「婦人倶楽部」
   1921(大正10)年2月
入力:Nana ohbe
校正:門田裕志
2002年5月14日作成
2012年9月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:「女らしさ」とは何か

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