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貝の穴に河童の居る事

著者:泉鏡花

かいのあなにかっぱのいること - いずみ きょうか

文字数:16,128 底本発行年:1942
著者リスト:
著者泉 鏡花
底本: 泉鏡花集成8
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序章-章なし

雨を含んだ風がさっと吹いて、いその香が満ちている――今日は二時頃から、ずッぷりと、一降り降ったあとだから、この雲のかさなった空合そらあいでは、季節で蒸暑かりそうな処を、身にみるほどに薄寒い。 ……

木の葉をこぼれるしずくも冷い。 ……糠雨ぬかあめがまだ降っていようも知れぬ。 時々ぽつりと来るのは――樹立こだちは暗いほどだけれど、その雫ばかりではなさそうで、鎮守の明神の石段は、わくら葉の散ったのが、一つ一つ皆かにになりそうに見えるまで、濡々と森のこずえくぐって、直線に高い。 その途中、処々夏草の茂りにおおわれたのに、雲の影が映って暗い。

縦横たてよこに道は通ったが、段の下は、まだ苗代にならない水溜みずたまりの田と、荒れたはたけだから――農屋漁宿のうおくぎょしゅく、なお言えば商家の町も遠くはないが、ざわめく風の間には、海の音もおどろに寂しく響いている。 よく言う事だが、四辺あたりびょうとして、底冷いもやに包まれて、人影も見えず、これなりに、やがて、逢魔おうまが時になろうとする。

町屋の屋根に隠れつつ、たつみひらけて海がある。 その反対の、山裾やますそくぼに当る、石段の左の端に、べたりと附着くッついて、溝鼠どぶねずみ這上はいあがったように、ぼろをはだに、笠もかぶらず、一本杖いっぽんづえの細いのに、しがみつくようにすがった。 杖のさきが、肩をいて、頭の上へ突出ている、うしろむきのその肩が、びくびくと、震え、震え、脊丈は三尺にも足りまい。 小児こどもだか、侏儒いっすんぼうしだか、小男だか。 ただ船虫の影のひろがったほどのものが、靄に沁み出て、一段、一段と這上る。 ……

しょぼけ返って、うごめくたびに、啾々しゅうしゅうと陰気にかすかな音がする。 腐れた肺が呼吸いきに鳴るのか――ぐしょ濡れですそから雫が垂れるから、骨を絞るひびきであろう――傘の古骨が風にきしむように、啾々と不気味に聞こえる。

「しいッ、」

「やあ、」

しッ、しッ、しッ。

曳声えいごえを揚げて……こっちは陽気だ。 手頃な丸太棒まるたんぼう差荷さしにないに、漁夫りょうしの、半裸体の、がッしりした壮佼わかものが二人、真中まんなかに一尾の大魚を釣るして来た。 魚頭を鈎縄かぎなわで、尾はほとんど地摺じずれである。 しかも、もりで撃った生々しい裂傷さききずの、肉のはぜて、真向まっこうあごひれの下から、たらたらと流るる鮮血なまちが、雨路あまみちに滴って、草に赤い。

私は話の中のこのうおを写出すのに、出来ることなら小さな鯨と言いたかった。 大鮪おおまぐろか、さめふかでないと、ちょっとその巨大おおきさとすさまじさが、真に迫らない気がする。 ――ほかに鮟鱇あんこうがある、それだと、ただその腹の膨れたのをるに過ぎぬ。 実は石投魚いしなぎである。 大温にして小毒あり、というにつけても、普通、私どもの目に触れる事がないけれども、ここに担いだのは五尺に余った、重量、二十貫に満ちた、たくましい人間ほどはあろう。 荒海の巌礁がんしょうみ、うろこ鋭く、面顰つらしかんで、はたが硬い。 と見るとしゃちに似て、彼が城の天守に金銀をよろった諸侯なるに対して、これは赤合羽あかがっぱまとった下郎が、蒼黒あおぐろい魚身を、血に底光りしつつ、ずしずしと揺られていた。

かばかりの大石投魚おおいしなぎの、さて価値ねうちといえば、両を出ない。 七八十銭に過ぎないことを、あとで聞いてちとふさいだほどである。 が、とにかく、これは問屋、市場へ運ぶのではなく、漁村なるわが町内の晩のおかずに――荒磯に横づけで、ぐわッぐわッと、自棄やけに煙を吐くふねから、手鈎てかぎ崖肋腹がけあばら引摺上ひきずりあげた中から、そのまま跣足はだしで、磯の巌道いわみちを踏んで来たのであった。

まだ船底を踏占めるような、重い足取りで、田畝たんぼ添いのすねを左右へ、草摺れに、だぶだぶと大魚おおうおゆすって、

「しいッ、」

「やあ、」

しっ、しっ、しっ。

この血だらけの魚の現世うつしよさまに似ず、梅雨の日暮の森にかかって、青瑪瑙あおめのうを畳んで高い、石段下を、横に、漁夫りょうしと魚で一列になった。

すぐここには見えない、木の鳥居は、海から吹抜けの風をいとってか、窪地でたちまち氾濫あふれるらしい水場のせいか、一条ひとすじやや広いあぜを隔てた、町の裏通りを――横に通った、正面と、撞木しゅもく打着ぶつかった真中まんなかに立っている。

序章-章なし
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貝の穴に河童の居る事 - 情報

貝の穴に河童の居る事

かいのあなにかっぱのいること

文字数 16,128文字

著者リスト:
著者泉 鏡花

底本 泉鏡花集成8

親本 鏡花全集 第二十三卷

青空情報


底本:「泉鏡花集成8」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年5月23日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十三卷」岩波書店
   1942(昭和17)年6月22日第1刷発行
初出:「古東多万 第一年第一號」やぼんな書房
   1931(昭和6)年9月
※初出時の題名は「貝の穴に河童が居る」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:本山智子
校正:門田裕志
2001年7月19日公開
2012年5月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:貝の穴に河童の居る事

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