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大導寺信輔の半生 ――或精神的風景画――

著者:芥川龍之介

だいどうじしんすけのはんせい - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:12,561 底本発行年:1978
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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一 本所

大導寺信輔の生まれたのは本所ほんじょ回向院えこういんの近所だった。 彼の記憶に残っているものに美しい町は一つもなかった。 美しい家も一つもなかった。 殊に彼の家のまわりは穴蔵大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだった。 それ等の家々に面した道も泥濘の絶えたことは一度もなかった。 おまけに又その道の突き当りはお竹倉の大溝おおどぶだった。 南京藻なんきんもの浮かんだ大溝はいつも悪臭を放っていた。 彼は勿論もちろんこう言う町々に憂欝ゆううつを感ぜずにはいられなかった。 しかし又、本所以外の町々は更に彼には不快だった。 しもた家の多い山の手を始め小綺麗こぎれいな商店の軒を並べた、江戸伝来の下町も何か彼を圧迫した。 彼は本郷や日本橋よりもむしろ寂しい本所を――回向院を、駒止こまどばしを、横網を、割り下水を、はんの木馬場を、お竹倉の大溝を愛した。 それは或は愛よりもあわれみに近いものだったかも知れない。 が、憐みだったにもせよ、三十年後の今日さえ時々彼の夢に入るものは未だにそれ等の場所ばかりである…………

信輔はもの心を覚えてから、絶えず本所の町々を愛した。 並み木もない本所の町々はいつも砂埃すなぼこりにまみれていた。 が、幼い信輔に自然の美しさを教えたのはやはり本所の町々だった。 彼はごみごみした往来に駄菓子を食って育った少年だった。 田舎は――殊に水田の多い、本所の東に開いた田舎はこう言う育ちかたをした彼には少しも興味を与えなかった。 それは自然の美しさよりも寧ろ自然の醜さを目のあたりに見せるばかりだった。 けれども本所の町々はたとい自然には乏しかったにもせよ、花をつけた屋根の草や水たまりに映った春の雲に何かいじらしい美しさを示した。 彼はそれ等の美しさの為にいつか自然を愛し出した。 もっとも自然の美しさに次第に彼の目を開かせたものは本所の町々には限らなかった。 本も、――彼の小学時代に何度も熱心に読み返した蘆花ろかの「自然と人生」やラボックの翻訳「自然美論」も勿論彼を啓発した。 しかし彼の自然を見る目に最も影響を与えたのは確かに本所の町々だった。 家々も樹木も往来も妙に見すぼらしい町々だった。

実際彼の自然を見る目に最も影響を与えたのは見すぼらしい本所の町々だった。 彼は後年本州の国々へ時々短い旅行をした。 が、荒あらしい木曾きその自然は常に彼を不安にした。 又優しい瀬戸内の自然も常に彼を退屈にした。 彼はそれ等の自然よりもはるかに見すぼらしい自然を愛した。 殊に人工の文明の中にかすかに息づいている自然を愛した。 三十年前の本所は割り下水の柳を、回向院の広場を、お竹倉の雑木林を、――こう言う自然の美しさをまだ至る所に残していた。 彼は彼の友だちのように日光や鎌倉へ行かれなかった。 けれども毎朝父と一しょに彼の家の近所へ散歩に行った。 それは当時の信輔には確かに大きい幸福だった。 しかし又彼の友だちの前に得々と話して聞かせるには何か気のひける幸福だった。

或朝焼けの消えかかった朝、父と彼とはいつものように百本杭ひゃっぽんぐいへ散歩に行った。 百本杭は大川の河岸でも特に釣り師の多い場所だった。 しかしその朝は見渡した所、一人も釣り師は見えなかった。

一 本所

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大導寺信輔の半生 - 情報

大導寺信輔の半生 ――或精神的風景画――

だいどうじしんすけのはんせい ――あるせいしんてきふうけいが――

文字数 12,561文字

著者リスト:

底本 昭和文学全集 第1巻

親本 芥川龍之介全集 第七卷

青空情報


底本:「昭和文学全集 第1巻」小学館
   1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
底本の親本:「芥川龍之介全集 第七卷」岩波書店
   1978(昭和53)年2月22日発行
初出:「中央公論 第四十年第一号」
   1925(大正14)年1月1日発行
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1998年10月11日公開
2016年2月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:大導寺信輔の半生

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