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偸盗

著者:芥川龍之介

ちゅうとう - あくたがわ りゅうのすけ

文字数:48,618 底本発行年:1954
著者リスト:
著者芥川 竜之介
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序章-章なし

「おばば、猪熊いのくまのおばば。」

朱雀綾小路すざくあやのこうじつじで、じみな紺の水干すいかん揉烏帽子もみえぼしをかけた、二十はたちばかりの、醜い、片目の侍が、平骨ひらぼねの扇を上げて、通りかかりの老婆を呼びとめた。 ――

むし暑く夏霞なつがすみのたなびいた空が、息をひそめたように、家々の上をおおいかぶさった、七月のある日ざかりである。 男の足をとめた辻には、枝のまばらな、ひょろ長い葉柳はやなぎが一本、このごろはやる疫病えやみにでもかかったかと思う姿で、かたばかりの影を地の上に落としているが、ここにさえ、その日にかわいた葉を動かそうという風はない。 まして、日の光に照りつけられた大路には、あまりの暑さにめげたせいか、人通りも今はひとしきりとだえて、たださっき通った牛車ぎっしゃのわだちが長々とうねっているばかり、その車の輪にひかれた、小さなながむしも、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつかあぶらぎった腹を上へ向けて、もううろこ一つ動かさないようになってしまった。 どこもかしこも、炎天のほこりを浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこのながむしの切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。

「おばば。」

「……」

老婆は、あわただしくふり返った。 見ると、年は六十ばかりであろう。 あかじみた檜皮色ひわだいろ帷子かたびらに、黄ばんだ髪の毛をたらして、しりの切れた藁草履わらぞうりをひきずりながら、長い蛙股かえるまたつえをついた、目の丸い、口の大きな、どこかひきの顔を思わせる、卑しげな女である。

「おや、太郎さんか。」

日の光にむせるような声で、こう言うと、老婆は、杖をひきずりながら、二足三足あとへ帰って、まず口を切る前に、上くちびるをべろりとなめて見せた。

「何か用でもおありか。」

「いや、別に用じゃない。」

片目は、うすいあばたのある顔に、しいて作ったらしい微笑をうかべながら、どこか無理のある声で、快活にこう言った。

「ただ、沙金しゃきんがこのごろは、どこにいるかと思ってな。」

「用のあるは、いつも娘ばかりさね。 とびたかを生んだおかげには。」

猪熊いのくまのばばは、いやみらしく、くちびるをそらせながら、にやついた。

「用と言うほどの用じゃないが、今夜の手はずも、まだ聞かないからな。」

「なに、手はずに変わりがあるものかね。 集まるのは羅生門らしょうもん、刻限は上刻じょうこく――みんな昔から、きまっているとおりさ。」

老婆は、こう言って、わるがしこそうに、じろじろ、左右をみまわしたが、人通りのないのに安心したのかまた、厚いくちびるをちょいとなめて、

「家内の様子は、たいてい娘が探って来たそうだよ。 それも、侍たちの中には、手のきくやつがいるまいという事さ。 詳しい話は、今夜娘がするだろうがね。」

これを聞くと、太郎と言われた男は、日をよけた黄紙きがみの扇の下で、あざけるように、口をゆがめた。

「じゃ沙金しゃきんはまた、たれかあすこの侍とでも、懇意になったのだな。」

「なに、やっぱり販婦ひさぎめか何かになって、行ったらしいよ。」

「なんになって行ったって、あいつの事だ。 当てになるものか。」

「お前さんは、相変わらずうたぐり深いね。 だから、娘にきらわれるのさ。 やきもちにも、ほどがあるよ。」

老婆は、鼻の先で笑いながら、つえを上げて、道ばたのながむし死骸しがいを突っついた。 いつのまにかたかっていた青蝿あおばえが、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。

序章-章なし
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偸盗 - 情報

偸盗

ちゅうとう

文字数 48,618文字

著者リスト:

底本 羅生門・鼻・芋粥・偸盗

親本 芥川竜之介全集

青空情報


底本:「羅生門・鼻・芋粥・偸盗」岩波文庫、岩波書店
   1960(昭和35)年11月25日第1刷発行
   1993(平成5)年9月20日第46刷発行
底本の親本:「芥川竜之介全集」岩波書店
   1954(昭和29)年〜1955(昭和30)年
初出:「中央公論」
   1917(大正6)年4、7月
入力:福田芽久美
校正:野口英司
1998年10月4日公開
2007年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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