序章-章なし
第一
一回十五枚ずつで、六回だけ、私がやってみることにします。
こんなのは、どうだろうかと思っている。
たとえば、ここに、鴎外の全集があります。
勿論、よそから借りて来たものである。
私には、蔵書なんて、ありやしない。
私は、世の学問というものを軽蔑して居ります。
たいてい、たかが知れている。
ことに可笑しいのは、全く無学文盲の徒に限って、この世の学問にあこがれ、「あの、鴎外先生のおっしゃいますることには、」などと、おちょぼ口して、いつ鴎外から弟子のゆるしを得たのか、先生、先生を連発し、「勉強いたして居ります。」
と殊勝らしく、眼を伏せて、おそろしく自己を高尚に装い切ったと信じ込んで、澄ましている風景のなかなかに多く見受けられることである。
あさましく、かえって鴎外のほうでまごついて、赤面するにちがいない。
勉強いたして居ります。
というのは商人の使う言葉である。
安く売る、という意味で、商人がもっぱらこの言葉を使用しているようである。
なお、いまでは、役者も使うようになっている。
曾我廼家五郎とか、また何とかいう映画女優などが、よくそんな言葉を使っている。
どんなことをするのか見当もつかないけれども、とにかく、「勉強いたして居ります。」
とさかんに神妙がっている様子である。
彼等には、それでよいのかも知れない。
すべて、生活の便法である。
非難すべきではない。
けれども、いやしくも作家たるものが、鴎外を読んだからと言って、急に、なんだか真面目くさくなって、「勉強いたして居ります。」
などと、澄まし込まなくてもよさそうに思われる。
それでは一体、いままで何を読んでいたのだろう。
甚だ心細い話である。
ここに鴎外の全集があります。
私が、よそから借りて来たものであります。
これを、これから一緒に読んでみます。
きっと諸君は、「面白い、面白い、」とおっしゃるにちがいない。
鴎外は、ちっとも、むずかしいことは無い。
いつでも、やさしく書いて在る。
かえって、漱石のほうが退屈である。
鴎外を難解な、深遠のものとして、衆俗のむやみに触れるべからずと、いかめしい禁札を張り出したのは、れいの「勉強いたして居ります。」
女史たち、あるいは、大学の時の何々教授の講義ノオトを、学校を卒業して十年のちまで後生大事に隠し持って、機会在る毎にそれをひっぱり出し、ええと、美は醜ならず、醜は美ならず、などと他愛ない事を呟き、やたらに外国人の名前ばかり多く出て、はてしなく長々しい論文をしたため、なむ学問なくては、かなうまい、としたり顔して落ちついている謂わば、あの、研究科の生徒たち。
そんな人たちは、窮極に於いて、あさましい無学者にきまっているのであるが、世の中は彼等を、「智慧ある人」として、畏敬するのであるから、奇妙である。
鴎外だって、嘲っている。
鴎外が芝居を見に行ったら、ちょうど舞台では、色のあくまでも白い侍が、部屋の中央に端坐し、「どれ、書見なと、いたそうか。」
と言ったので、鴎外も、これには驚き閉口したと笑って書いて在った。
諸君は、いま私と一緒に、鴎外全集を読むのであるが、ちっとも固くなる必要は無い。