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詩の原理

著者:萩原朔太郎

しのげんり - はぎわら さくたろう

文字数:152,712 底本発行年:1954
著者リスト:
著者萩原 朔太郎
底本: 詩の原理
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本書を書き出してから、自分は寝食を忘れて兼行し、三カ月にして脱稿した。 しかしこの思想をまとめる為には、それよりもずっと永い間、ほとんど約十年間を要した。 健脳な読者の中には、ずっと昔、自分と室生犀星むろうさいせい等が結束した詩の雑誌「感情」の予告において、本書の近刊広告が出ていたことを知ってるだろう。 実にその頃からして、自分はこの本を書き出したのだ。 しかも中途にして思考が蹉跌さてつし、前に進むことができなくなった。 なぜならそこには、どうしても認識の解明し得ない、困難の岩が出て来たから。

いかに永い間、自分はこの思考を持てあまし、荷物の重圧に苦しんでいたことだろう。 考えれば考える程、書けば書くほど、後から後からと厄介な問題が起ってきた。 折角一つの岩を切りぬいても、すぐまた次に、別の新しい岩が出て来て、思考の前進を障害した。 すくなくとも過去に於て、自分は二千枚近くの原稿を書き、そして皆中途に棄ててしまった。 言いようのない憂鬱ゆううつが、しばしば絶望のどん底から感じられた。 しかも狂犬のように執念深く、自分はこの問題にじりついていた。 あらゆる瘠我慢やせがまんの非力をふるって、最後にまで考えぬこうと決心した。 そして結局、この書の内容の一部分を、鎌倉の一年間で書き終った。 それは『自由詩の原理』と題する部分的の詩論であったが、或る事情から出版がやになって、そのまま手許てもとに残しておいた。

大森に移ってきてから、再度全体の整理を始めた。 そして最近、ついにこの大部の書物を書き終った。 これには『自由詩の原理』を包括したり、そのずっと前に書いて破いた『詩の認識について』も、概要だけを取り入れておいた。 そして要するに、詩の形式と内容とにわたるところの、詩論全体を一貫して統一した。 即ちこの書物によって、自分は初めて十年来の重荷をおろし、ようや呼吸いきがつけたわけだ。 何という重苦しい、困難な荷物であったろう。 自分はちかって決心した。 もはや再度こうした思索の迷路の中へ、自分を立ち入らせまいと言うことを。

自分はこの書物の価値について、自ら全く知っていない。 意外にこの書は、つまらないものであるか知れない。 あるいはまた、意外に面白いものであるか知れない。 そうした読者の批判は別として、自分は少なくともこの書物で、過去に発表した断片的の多くの詩論――雑誌その他の刊行物に載る――を、殆ど完全に統一した。 それらの詩論は、たいてい自分の思想の一部を、体系から切断して示したもので、多くは暗示的であったり、結論が無かったりした為に、しばしば読者から反問されたり、意外の誤解を招いたりした。 (特に自由詩論に関するものは、多くの人から誤解された。)自分はこれ等の人に対し、一々答解することのはんを避けた。 なぜなら本書の出版が、一切を完全に果すことを信じたからだ。 この書物に於てのみ、読者は完全に著者を知り、過去の詩論が隠しておいた一つの「かぎ」が、実に何であったかを気附くであろう。

日本に於ては、実に永い時日の間、詩が文壇から迫害されていた。 それは恐らく、我が国に於ける切支丹キリシタンの迫害史が、世界に類なきものであったように、全く外国に珍らしい歴史であった。 (確かに吾人ごじんは詩という言語の響の中に、日本の文壇思潮と相容れない、切支丹的邪宗門のにおいを感ずる。)単に詩壇が詩壇として軽蔑けいべつされているのではない。 何よりも本質的なる、詩的精神そのものが冒涜ぼうとくされ、一切の意味で「詩」という言葉が、不潔につばきかけられているのである。 我々は単に、空想、情熱、主観等の語を言うだけでも、その詩的のゆえ嘲笑ちょうしょうされ、文壇的人非人にんぴにんとして擯斥ひんせきされた。

こうした事態の下に於て、いかに詩人が圧屈され、卑怯ひきょうおどおどした人物にまで、ねじけて成長せねばならないだろうか。 丁度あの切支丹等が、彼等のマリア観音を壁に隠して、秘密に信仰をつづけたように、我々のしいたげられた詩人たちも、同じくその芸術を守るために、秘密な信仰をつづけねばならなかった。 そして詩的精神は隠蔽いんぺいされ、感情は押しつぶされ、詩は全く健全な発育を見ることができなかった。

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詩の原理 - 情報

詩の原理

しのげんり

文字数 152,712文字

著者リスト:

底本 詩の原理

青空情報


底本:「詩の原理」新潮文庫、新潮社
   1954(昭和29)年10月30日発行
   1972(昭和47)年3月10日20刷改版
   1975(昭和50)年9月10日27刷
初出:「詩の原理」第一書房
   1928(昭和3)年12月15日
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※複数行にかかる波括弧には、けい線素片をあてました。
入力:鈴木修一
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年2月19日作成
2019年11月26日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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