序章-章なし
一 「話」らしい話のない小説
僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。
従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。
第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。
デツサンのない画は成り立たない。
それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。
(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若し厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何なる小説も成り立たないであらう。
従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。
「ダフニとクロオと」の物語以来、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。
「戦争と平和」も「話」を持つてゐる。
「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。
……
しかし或小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。
況や話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外にある筈である。
(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇抜な「話」の上に立つた多数の小説の作者である。
その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るであらう。
しかしそれは必しも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無さへもかう云ふ問題には没交渉である。
僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。
しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。
「話」らしい話のない小説は勿論唯身辺雑事を描いただけの小説ではない。
それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。
しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙かに小説に近いものである。
僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。
が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。
もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。
(カンデインスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。
幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するのであらう。
僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。
ではかう云ふ小説はあるかどうか? 独逸の初期自然主義の作家たちはかう云ふ小説に手をつけてゐる。
しかし更に近代ではかう云ふ小説の作家としては何びともジユウル・ルナアルに若かない。
(僕の見聞する限りでは)たとへばルナアルの「フイリツプ一家の家風」は(岸田国士氏の日本訳「葡萄畑の葡萄作り」の中にある)一見未完成かと疑はれる位である。
が、実は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出来る小説である。
もう一度セザンヌを例に引けば、セザンヌは我々後代のものへ沢山の未完成の画を残した。
丁度ミケル・アンヂエロが未完成の彫刻を残したやうに。
――しかし未完成と呼ばれてゐるセザンヌの画さへ未完成かどうか多少の疑ひなきを得ない。
現にロダンはミケル・アンヂエロの未完成の彫刻に完成の名を与へてゐる!……しかしルナアルの小説はミケル・アンヂエロの彫刻は勿論、セザンヌの画の何枚かのやうに未完成の疑ひのあるものではない。
僕は不幸にも寡聞の為に仏蘭西人はルナアルをどう評価してゐるかを知らずにゐる。
けれども、わがルナアルの仕事の独創的なものだつたことを十分には認めてゐないらしい。
ではかう云ふ小説は紅毛人以外には書かなかつたか? 僕は僕等日本人の為に志賀直哉氏の諸短篇を、――「焚火」以下の諸短篇を数へ上げたいと思つてゐる。