火の鳥
著者:太宰治
ひのとり - だざい おさむ
文字数:37,537 底本発行年:1975
序編には、女優高野幸代の女優に至る以前を記す。
昔の話である。
須々木
「セルなら、ございます。」 昭和五年の十月二十日、東京の街路樹の葉は、風に散りかけていた。
「まだセルでも、おかしくないか。」
「もっともっとお寒くなりましてからでも、黒の無地なら、おかしいことはございませぬ。」
「よし。
見せて
「あなたさまがお
「そうだ。」
差し出されたセルの
「セルのお羽織なら、かえって少し短かめのほうが。」
「
羽織を買った。
これで全部、身仕度は出来た。
数時間のち、須々木乙彦は、内幸町、帝国ホテルのまえに立っていた。
鼠いろのこまかい
「部屋を貸して呉れないか。」
「は、お泊りで?」
「そうだ。」
浴室附のシングルベッドの部屋を二晩借りることにきめた。
持ちものは、
給仕人に背を向けて窓のそとを眺めたまま、
「コーヒーと、それから、――」言いかけて、しばらくだまっていた。 くるっと給仕人のほうへ向き直り、「まあ、いい。 外へ出て、たべる。」
「あ、君。」 乙彦は、呼びとめて、「二晩、お世話になる。」 十円紙幣を一枚とり出して、握らせた。