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犯人

著者:太宰治

はんにん - だざい おさむ

文字数:7,895 底本発行年:1975
著者リスト:
著者太宰 治
底本: 太宰治全集9
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序章-章なし

「僕はあなたを愛しています」とブールミンは言った「心から、あなたを、愛しています」

マリヤ・ガヴリーロヴナは、さっと顔をあからめて、いよいよ深くうなだれた。

――プウシキン(吹雪)

なんという平凡。 わかい男女の恋の会話は、いや、案外おとなどうしの恋の会話も、はたで聞いては、その陳腐ちんぷ、きざったらしさに全身鳥肌とりはだの立つ思いがする。

けれども、これは、笑ってばかりもすまされぬ。 おそろしい事件が起った。

同じ会社に勤めている若い男と若い女である。 男は二十六歳、鶴田つるた慶助。 同僚は、鶴、鶴、と呼んでいる。 女は、二十一歳、小森ひで、同僚は、森ちゃん、と呼んでいる。 鶴と、森ちゃんとは、好き合っている。

晩秋のる日曜日、ふたりは東京郊外のかしら公園であいびきをした。 午前十時。

時刻も悪ければ、場所も悪かった。 けれども二人には、金が無かった。 いばらの奥深くきわけて行っても、すぐそば分別顔ふんべつがおの、子供づれの家族がとおる。 ふたり切りになれない。 ふたりは、お互いに、ふたり切りになりたくてたまらないのに、でも、それを相手に見破られるのがはずかしいので、空のあおさ、紅葉のはかなさ、美しさ、空気の清浄、社会の混沌こんとん、正直者は馬鹿を見る、等という事を、すべてうわそらで語り合い、お弁当はわけ合って食べ、詩以外には何も念頭に無いというあどけない表情をつとめて、晩秋の寒さをこらえ、午後三時には、さすがに男は浮かぬ顔になり、

「帰ろうか。」

と言う。

「そうね。」

と女は言い、それから一言、つまらぬことを口走った。

「一緒に帰れるお家があったら、幸福ね。 帰って、火をおこして、……三畳一間でも、……」

笑ってはいけない。 恋の会話は、かならずこのように陳腐なものだが、しかし、この一言が、若い男の胸を、つかもとおれと突き刺した。

部屋。

鶴は会社の世田谷の寮にいた。 六畳一間に、同僚と三人の起居である。 森ちゃんは高円寺の、叔母おばの家に寄寓きぐう 会社から帰ると、女中がわりに立ち働く。

鶴の姉は、三鷹みたかの小さい肉屋にとついでいる。 あそこの家の二階が二間。

鶴はその日、森ちゃんを吉祥寺きちじょうじ駅まで送って、森ちゃんには高円寺行きの切符を、自分は三鷹行きの切符を買い、プラットフオムの混雑にまぎれて、そっと森ちゃんの手を握ってから、別れた。 部屋を見つける、という意味で手を握ったのである。

「や、いらっしゃい。」

店では小僧がひとり、肉切庖丁ぼうちょうをといでいる。

「兄さんは?」

序章-章なし
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犯人 - 情報

犯人

はんにん

文字数 7,895文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 太宰治全集9

親本 筑摩全集類聚版太宰治全集

青空情報


底本:「太宰治全集9」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(平成元)年5月30日第1刷発行
   1998(平成10)年6月15日第5刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月〜1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年1月23日公開
2004年3月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:犯人

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