• URLをコピーしました!

青年

著者:森鴎外

せいねん - もり おうがい

文字数:122,897 底本発行年:1948
著者リスト:
著者:森 鴎外
底本: 青年
0
0
0


壱

小泉純一は芝日蔭町(しばひかげちょう)の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場(ていりゅうば)から上野行の電車に乗った。 目まぐろしい須田町(すだちょう)の乗換も無事に済んだ。 さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現(ねづごんげん)の表坂上にある袖浦館(そでうらかん)という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。

此処(ここ)は道が丁字路になっている。 権現前から登って来る道が、自分の辿(たど)って来た道を鉛直に切る処(ところ)に袖浦館はある。 木材にペンキを塗った、マッチの箱のような擬西洋造(まがいせいようづくり)である。 入口(いりくち)の鴨居(かもい)の上に、木札が沢山並べて嵌(は)めてある。 それに下宿人の姓名が書いてある。

純一は立ち留まって名前を読んで見た。 自分の捜す大石狷太郎(けんたろう)という名は上から二三人目に書いてあるので、すぐに見附かった。 赤い襷(たすき)を十文字に掛けて、上(あが)り口(くち)の板縁に雑巾(ぞうきん)を掛けている十五六の女中が雑巾の手を留めて、「どなたの所(ところ)へいらっしゃるの」と問うた。

「大石さんにお目に掛りたいのだが」

田舎から出て来た純一は、小説で読み覚えた東京詞(ことば)を使うのである。 丁度不慣(ふなれ)な外国語を使うように、一語一語考えて見て口に出すのである。 そしてこの返事の無難に出来たのが、心中で嬉しかった。

雑巾を掴(つか)んで突っ立った、ませた、おちゃっぴいな小女(こおんな)の目に映じたのは、色の白い、卵から孵(かえ)ったばかりの雛(ひよこ)のような目をしている青年である。 薩摩絣(さつまがすり)の袷(あわせ)に小倉(こくら)の袴(はかま)を穿(は)いて、同じ絣の袷羽織を着ている。 被物(かぶりもの)は柔かい茶褐(ちゃかつ)の帽子で、足には紺足袋に薩摩下駄を引っ掛けている。 当前(あたりまえ)の書生の風俗ではあるが、何から何まで新しい。 これで昨夕(ゆうべ)始めて新橋に着いた田舎者とは誰にも見えない。 小女は親しげに純一を見て、こう云った。

「大石さんの所(とこ)へいらっしったの。 あなた今時分いらっしったって駄目よ。 あの方は十時にならなくっちゃあ起きていらっしゃらないのですもの。 ですから、いつでも御飯は朝とお午(ひる)とが一しょになるの。 お帰りが二時になったり、三時になったりして、それからお休みになると、一日寐(ね)ていらっしってよ」

「それじゃあ、少し散歩をしてから、又来るよ」

「ええ。 それが好うございます」

純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。 二三歩すると袂(たもと)から方眼図の小さく折ったのを出して、見ながら歩くのである。 自分の来た道では、官員らしい、洋服の男や、角帽の学生や、白い二本筋の帽を被った高等学校の生徒や、小学校へ出る子供や、女学生なんぞが、ぞろぞろと本郷の通(とおり)の方へ出るのに擦(す)れ違ったが、今坂の方へ曲って見ると、まるで往来(ゆきき)がない。 右は高等学校の外囲(そとがこい)、左は角が出来たばかりの会堂で、その傍(そば)の小屋のような家から車夫が声を掛けて車を勧めた処を通り過ぎると、土塀や生垣(いけがき)を繞(めぐ)らした屋敷ばかりで、その間に綺麗(きれい)な道が、ひろびろと附いている。

広い道を歩くものが自分ひとりになると共に、この頃の朝の空気の、毛髪の根を緊縮させるような渋み味を感じた。 そして今小女に聞いた大石の日常の生活を思った。 国から態々(わざわざ)逢(あ)いに出て来た大石という男を、純一は頭の中で、朧気(おぼろげ)でない想像図にえがいているが、今聞いた話はこの図の輪廓(りんかく)を少しも傷(きずつ)けはしない。 傷けないばかりではない、一層明確にしたように感ぜられる。 大石というものに対する、純一が景仰(けいこう)と畏怖(いふ)との或る混合の感じが明確になったのである。

坂の上に出た。

壱

━ おわり ━  小説TOPに戻る
0
0
0
読み込み中...
ブックマーク系
サイトメニュー
シェア・ブックマーク
シェア

青年 - 情報

青年

せいねん

文字数 122,897文字

著者リスト:
著者:森 鴎外

底本 青年

青空情報


底本:「青年」新潮文庫、新潮社
   1948(昭和23)年12月15日発行
   1985(昭和60)年11月15日66刷改版
   1998(平成10)年2月15日85刷
入力:砂場清隆
校正:藤田禎宏
2000年12月22日公開
2013年7月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:青年

小説内ジャンプ
コントロール
設定
しおり
おすすめ書式
ページ送り
改行
文字サイズ

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!