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悟浄出世

著者:中島敦

ごじょうしゅっせ - なかじま あつし

文字数:18,516 底本発行年:1968
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著者中島 敦
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序章-章なし

寒蝉敗柳かんせんはいりゅうに鳴き大火西に向かいて流るる秋のはじめになりければ心細くも三蔵さんぞうは二人の弟子にいざなわれ嶮難けんなんしのぎ道を急ぎたもうに、たちまち前面に一条の大河あり。 大波湧返わきかえりて河の広さそのいくばくという限りを知らず。 岸に上りて望み見るときかたわらに一つの石碑あり。 上に流沙河りゅうさがの三字を篆字てんじにて彫付け、表に四行の小楷字かいじあり。

八百流沙界はちひゃくりゅうさのかい

三千弱水深さんぜんじゃくすいふかし

鵞毛飄不起がもうただよいうかばず

蘆花定底沈ろかそこによどみてしずむ

――西遊記――

そのころ流沙河りゅうさがの河底にんでおった妖怪ばけものの総数およそ一万三千、なかで、かればかり心弱きはなかった。 かれに言わせると、自分は今までに九人の僧侶そうりょった罰で、それら九人の骸顱しゃれこうべが自分のくび周囲まわりについて離れないのだそうだが、他の妖怪ばけものらには誰にもそんな骸顱しゃれこうべは見えなかった。 「見えない。 それは※(「にんべん+爾」、第3水準1-14-45)おまえの気の迷いだ」と言うと、かれは信じがたげな眼で、一同を見返し、さて、それから、なぜ自分はこうみんなと違うんだろうといったふうな悲しげな表情に沈むのである。 他の妖怪ばけものらは互いに言合うた。 あいつは、僧侶そうりょどころか、ろくに人間さえったことはないだろう。 誰もそれを見た者がないのだから。 ふなざこを取って喰っているのなら見たこともあるが」と。 また彼らはかれ綽名あだなして、独言悟浄どくげんごじょうと呼んだ。 かれが常に、自己に不安を感じ、身を切刻む後悔にさいなまれ、心の中で反芻はんすうされるそのかなしい自己苛責かしゃくが、ついひとり言となってれるがゆえである。 遠方から見ると小さなあわかれの口から出ているにすぎないようなときでも、実は彼がかすかな声でつぶやいているのである。 おれはばかだ」とか、「どうして俺はこうなんだろう」とか、「もうだめだ。 俺は」とか、ときとして「俺は堕天使だてんしだ」とか。

当時は、妖怪に限らず、あらゆる生きものはすべて何かの生まれかわりと信じられておった。 悟浄がかつて天上界てんじょうかい霊霄殿りょうしょうでん捲簾けんれん大将を勤めておったとは、この河底で誰言わぬ者もない。 それゆえすこぶる懐疑的な悟浄自身も、ついにはそれを信じておるふりをせねばならなんだ。 が、実をいえば、すべての妖怪ばけものの中でかれ一人はひそかに、生まれかわりの説に疑いをもっておった。 天上界で五百年前に捲簾大将をしておった者が今の俺になったのだとして、さて、その昔の捲簾大将と今のこの俺とが同じものだといっていいのだろうか? 第一、俺は昔の天上界のことを何一つ記憶してはおらぬ。 その記憶以前の捲簾大将と俺と、どこが同じなのだ。 身体からだが同じなのだろうか? それとも魂が、だろうか? ところで、いったい、魂とはなんだ? こうした疑問をかれらすと、妖怪ばけものどもは「また、始まった」といってわらうのである。 あるものは嘲弄ちょうろうするように、あるものは憐愍れんびんの面持ちをもって「病気なんだよ。 悪い病気のせいなんだよ」と言うた。

事実、かれは病気だった。

いつのころから、また、何がもとでこんな病気になったか、悟浄ごじょうはそのどちらをも知らぬ。 ただ、気がついたらそのときはもう、このようないとわしいものが、周囲に重々しく立罩たちこめておった。 渠は何をするのもいやになり、見るもの聞くものがすべて渠の気を沈ませ、何事につけても自分がいとわしく、自分に信用がおけぬようになってしもうた。 何日も何日も洞穴ほらあなこもって、食をらず、ギョロリと眼ばかり光らせて、渠は物思いに沈んだ。 不意に立上がってその辺を歩きまわり、何かブツブツ独り言をいいまた突然すわる。 その動作の一つ一つを自分では意識しておらぬのである。

序章-章なし
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悟浄出世 - 情報

悟浄出世

ごじょうしゅっせ

文字数 18,516文字

著者リスト:
著者中島 敦

底本 李陵・山月記・弟子・名人伝

青空情報


底本:「李陵・山月記・弟子・名人伝」角川文庫 角川書店
   1968(昭和43)年9月10日改版初版発行
   1998(平成10)年5月30日改版52版発行
入力:佐野良二
校正:松永正敏
2001年3月16日公開
2011年3月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:悟浄出世

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