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畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―

著者:太宰治

ちくけんだん - だざい おさむ

文字数:12,151 底本発行年:1972
著者リスト:
著者太宰 治
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序章-章なし

私は、犬については自信がある。 いつの日か、かならずいつかれるであろうという自信である。 私は、きっとまれるにちがいない。 自信があるのである。 よくぞ、きょうまで喰いつかれもせず無事に過してきたものだと不思議な気さえしているのである。 諸君、犬は猛獣である。 馬をたおし、たまさかには獅子ししと戦ってさえこれを征服するとかいうではないか。 さもありなんと私はひとり淋しく首肯しゅこうしているのだ。 あの犬の、鋭いきばを見るがよい。 ただものではない。 いまは、あのように街路で無心のふうを装い、とるに足らぬもののごとくみずから卑下して、芥箱ごみばこのぞきまわったりなどしてみせているが、もともと馬を斃すほどの猛獣である。 いつなんどき、怒り狂い、その本性を暴露するか、わかったものではない。 犬はかならず鎖に固くしばりつけておくべきである。 少しの油断もあってはならぬ。 世の多くの飼い主は、みずから恐ろしき猛獣を養い、これに日々わずかの残飯ざんぱんを与えているという理由だけにて、まったくこの猛獣に心をゆるし、エスやエスやなど、気楽に呼んで、さながら家族の一員のごとく身辺に近づかしめ、三歳のわが愛子をして、その猛獣の耳をぐいと引っぱらせて大笑いしている図にいたっては、戦慄せんりつ、眼をおおわざるを得ないのである。 不意に、わんといって喰いついたら、どうする気だろう。 気をつけなければならぬ。 飼い主でさえ、噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を、(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信にすぎない。 あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。 けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘徊はいかいさせておくとは、どんなものであろうか。 昨年の晩秋、私の友人が、ついにこれの被害を受けた。 いたましい犠牲者である。 友人の話によると、友人は何もせず横丁を懐手ふところでしてぶらぶら歩いていると、犬が道路上にちゃんと坐っていた。 友人は、やはり何もせず、その犬の傍を通った。 犬はその時、いやな横目を使ったという。 何事もなく通りすぎた、とたん、わんといって右のあしに喰いついたという。 災難である。 一瞬のことである。 友人は、呆然自失ぼうぜんじしつしたという。 ややあって、くやし涙が沸いて出た。 さもありなん、と私は、やはり淋しく首肯している。 そうなってしまったら、ほんとうに、どうしようも、ないではないか。 友人は、痛む脚をひきずって病院へ行き手当を受けた。 それから二十一日間、病院へ通ったのである。 三週間である。 脚の傷がなおっても、体内に恐水病といういまわしい病気の毒が、あるいは注入されてあるかもしれぬという懸念けねんから、その防毒の注射をしてもらわなければならぬのである。 飼い主に談判するなど、その友人の弱気をもってしては、とてもできぬことである。 じっとこらえて、おのれの不運に溜息ためいきついているだけなのである。 しかも、注射代などけっして安いものではなく、そのような余分のたくわえは失礼ながら友人にあるはずもなく、いずれは苦しい算段をしたにちがいないので、とにかくこれは、ひどい災難である。

序章-章なし
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畜犬談 - 情報

畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―

ちくけんだん ―いまうへいくんにあたえる―

文字数 12,151文字

著者リスト:
著者太宰 治

底本 日本文学全集70 太宰治集

青空情報


底本:「日本文学全集70 太宰治集」集英社
   1972(昭和47)年3月初版
初出:「文学者」
   1939(昭和14)年8月
入力:網迫
校正:田尻幹二
1999年4月12日公開
2009年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

青空文庫:畜犬談

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