序章-章なし
これは、れいの飲食店閉鎖の命令が、未だ発せられない前のお話である。
新宿辺も、こんどの戦火で、ずいぶん焼けたけれども、それこそ、ごたぶんにもれず最も早く復興したのは、飲み食いをする家であった。
帝都座の裏の若松屋という、バラックではないが急ごしらえの二階建の家も、その一つであった。
「若松屋も、眉山がいなけりゃいいんだけど。」
「イグザクトリイ。
あいつは、うるさい。
フウルというものだ。」
そう言いながらも僕たちは、三日に一度はその若松屋に行き、そこの二階の六畳で、ぶっ倒れるまで飲み、そうして遂に雑魚寝という事になる。
僕たちはその家では、特別にわがままが利いた。
何もお金を持たずに行って、後払いという自由も出来た。
その理由を簡単に言えば、三鷹の僕の家のすぐ近くに、やはり若松屋というさかなやがあって、そこのおやじが昔から僕と飲み友達でもあり、また僕の家の者たちとも親しくしていて、そいつが、「行ってごらんなさい、私の姉が新宿に新しく店を出しました。
以前は築地でやっていたのですがね。
あなたの事は、まえから姉に言っていたのです。
泊って来たってかまやしません。」
僕はすぐに出かけ、酔っぱらって、そうして、泊った。
姉というのはもう、初老のあっさりしたおかみさんだった。
何せ、借りが利くので重宝だった。
僕は客をもてなすのに、たいていそこへ案内した。
僕のところへ来る客は、自分もまあこれでも、小説家の端くれなので、小説家が多くならなければならぬ筈なのに、画家や音楽家の来訪はあっても、小説家は少かった。
いや、ほとんど無いと言っても過言ではない状態であった。
けれども、新宿の若松屋のおかみさんは、僕の連れて行く客は、全部みな小説家であると独り合点している様子で、殊にも、その家の女中さんのトシちゃんは、幼少の頃より、小説というものがメシよりも好きだったのだそうで、僕がその家の二階に客を案内するともう、こちら、どなた? と好奇の眼をかがやかして僕に尋ねる。
「林芙美子さんだ。」
それは僕より五つも年上の頭の禿げた洋画家であった。
「あら、だって、……」
小説というものがメシよりも好きと法螺を吹いているトシちゃんは、ひどく狼狽して、
「林先生って、男の方なの?」
「そうだ。
高浜虚子というおじいさんもいるし、川端龍子という口髭をはやした立派な紳士もいる。」
「みんな小説家?」
「まあ、そうだ。」
それ以来、その洋画家は、新宿の若松屋に於いては、林先生という事になった。
本当は二科の橋田新一郎氏であった。
いちど僕は、ピアニストの川上六郎氏を、若松屋のその二階に案内した事があった。
僕が下の御不浄に降りて行ったら、トシちゃんが、お銚子を持って階段の上り口に立っていて、
「あのかた、どなた?」
「うるさいなあ。
誰だっていいじゃないか。」
僕も、さすがに閉口していた。
「ね、どなた?」