あさましきもの
著者:太宰治
あさましきもの - だざい おさむ
文字数:1,801 底本発行年:1975
こんな話を聞いた。
たばこ屋の娘で、小さく、愛くるしいのがいた。
男は、この娘のために、飲酒をやめようと決心した。
娘は、男のその決意を聞き、「うれしい。」
と
男の意志は強くなかった。
その翌々日、すでに飲酒を為した。
日暮れて、男は
「すみません」と小声で言って、ぴょこんと頭をさげた。 真実わるい、と思っていた。 娘は、笑っていた。
「こんどこそ、飲まないからね」
「なにさ」娘は、無心に笑っていた。
「かんにんして、ね」
「だめよ、お酒飲みの真似なんかして」
男の酔いは一時にさめた。 「ありがとう。 もう飲まない」
「たんと、たんと、からかいなさい」
「おや、僕は、僕は、ほんとうに飲んでいるのだよ」
あらためて娘の
「だって」娘は、濁りなき笑顔で応じた。 「誓ったのだもの。 飲むわけないわ。 ここではお芝居およしなさいね」
てんから疑って
男は、キネマ俳優であった。 岡田時彦さんである。 先年なくなったが、じみな人であった。 あんな、せつなかったこと、ございませんでした、としんみり述懐して、行儀よく紅茶を一口すすった。
また、こんな話も聞いた。
どんなに永いこと散歩しても、それでも物たりなかったという。 ひとけなき夜の道。 女は、息もたえだえの思いで、幾度となく胴をくねらせた。