序章-章なし
いらっしゃいまし。
お珍らしい雨で御座いますナアどうも……こうダシヌケに降り出されちゃ敵いません。
いつも御贔屓になりまして……ま……おかけ下さいまし。
一服お付けなすって……ハハア。
傘をお持ちにならなかった。
ヘヘ、どうぞ御ゆっくり……そのうち明るくなりましょう。
どうもコンナにお涼しくなりましてから雷鳴入りの夕立なんて可笑しな時候で御座いますなあ。
まったく……まだ五時だってえのに電燈を灯けなくちゃ物が見えねえなんて……店ん中に妖怪でも出そうで……もっとも古本屋なんて商売は、あんまり明るくちゃ工合が悪う御座いますナ。
西日が一パイに這入るような店だと背皮がミンナ離れちゃいますからね。
ヘヘヘ……。
失礼ですが旦那は東京のお方で……ハハア。
東京の大学からコチラへ御転任になった。
○○科にお勤めになっていらっしゃる……成る程。
コンナ時候のいい時は大してお忙がしく御座んせんで……ヘヘ。
恐れ入りやす。
開業医だったら大損で……まったく大学って処は有り難い処で御座いますなあ。
実は私もコレで東京生れなんで。
竜閑橋ってえ処の猫の額みたいなケチな横町で生れたもんでゲスが、ヘヘヘ。
これでも若い時分は弁護士になろうてんで、神田の東洋法律学校へ通いまして六法全書なんかをヒネクリまわしていたもんですが、生れ付きのナマクラでね。
小説を読んでゴロゴロしたり、女の尻ばかり追いまわしたりして、さっぱりダラシが御座んせん。
両親が亡くなりますと一気に、親類には見離される。
苦学する程の骨ッ節もなし。
法界節の文句通りに仕方がないからネエエ――てんで、月琴を担いで上海にでも渡って一旗上げようかテナ事で、御存じの美土代町の銀行の石段にアセチレンを付けて、道楽半分に買集めていた探偵小説の本だの教科書の貰い集めだのを並べたのが病み付きで、とうとう古本屋になっちまいましてね。
ヘヘヘ。
その中に嬶が出来たり餓鬼が出来たり何かしてマゴマゴしている中にコンナに頭が禿げちゃっちゃあモウ取返しが付きやせん。
まあまあナマクラ者にゃ似合い相当のところでげしょう。
文句はありませんや。
ヘエヘエ。
それあ、この××クンダリへ流れて来るまでにゃガラ相当の苦労も致しやしたよ。
途中で古本屋がイヤンなっちゃって、見よう見真似の落語家になったり、幇間になったりしましたが、やっぱり皮切りの商売がよろしいようで、人間迷っちゃ損で御座いますナ。
だんだん呼吸をおぼえて来ると面白い事もチョイチョイ御座いますナ。
ヘエ……粗茶で御座いますが一服いかが様で……ドウゾごゆっくり……。
コンナに降りますと、お客様もお見えになりませんな。
いつ来て見ても、お客様が一人立っておいでになる古本屋なら、大丈夫立って行くものです。
ですから一人もお客様がお見えにならないと手前が自分でサクラになってノソノソ降りて行きまして、本棚なぞを整理致しておりますんで……これがマア商売のコツで御座いますナ。
つまりその一人立っている人間が店の囮になるんで……通りかかりの方が店を覗いて御覧になった時に、誰か一人本棚の前に突立って本を読むか何か致しておりますとツイ釣り込まれてふらふらと這入ってお出でになる。
群衆心理というもので御座いますかな……そのアトから又一人フラフラっと……てな訳で……。
イヤどう致しまして……先生にお茶を差上げて囮に使っている訳じゃ御座んせん。
ハハハ。